》はくやしいと思っても、段々|馴《な》れて、それに反抗心も出て、勝手になんでも言うが好《い》い、いくらでも書くが好いという気になって、意地悪になってしまって……」

       六

 彼女の頬《ほお》は、暖炉や飲料《のみもの》のためではなくカッと血の気がさした。それを見ると、わたしは気持ちがすがすがしくなって、お鯉は生ている、生作りの膾《なます》だと、急に聞く方も、ぴんとした。
「あたしは貴女にいろいろ聞きたいことがあるのですが、みんな後にしてしまって、桂さんに御死別《おわかれ》になったあとのことが――さぞ、世評は誤解だらけでしょうから、ありのままのことをお話して頂きたいのです」
 わたしが無作法にも、訪問記者のようなことを言出したのは、あの頃――桂侯爵の逝去ののち、愛妾お鯉に、いくら面会をもとめても家人が許さなかったというような新聞記事を見ていたからであった。気の弱いわたしはそこまで立入った問《とい》は心がゆるさなかったので、その真偽は聞きもらしたが、思いがけない面白い――面白いといってはすまない、その人にとれば、いままで、善を悪として伝えられ、白を黒と発表されていた事柄なのだった。お鯉という女の真意は、かくのごとく清く滞らないものであるということを語るには、ありのままを記《しる》そう。
 この女《ひと》も意気の女だった。何もかも振りおとして、重荷をはらってしまおうと思うと、慾も徳も考えない気短な、煩《うる》さがりやの、金銭に恬淡《てんたん》な感情家なのだった。わたしは、自分にも、共通の弱点のあることを考えてほほえんだ。痛快にも思った。
 人はあるいはいうかも知れない。些細《ささい》な感情などに動かされて、利害を忘れ、長き後《のち》の悔《くい》を残すと――けれど、もしそういう人があったならば、わたしは誇らしく面《おもて》をあげていうであろう。冷徹な理性の人にも失敗はある。感情に激しやすくっても失敗はある。いずれが是《ぜ》、いずれが非《ひ》と誰れが定められよう。感情の複雑な人ほど、美人は人間的の美をますと――
 彼女は白い手に銀の小刀をとった。赤い柿《かき》の皮が細く綺麗につながってゆく。エメラルドは指に碧《あお》く、思出は彼女の頭の中をくるくると赤く、まざまざと巻返えされていると見える。彼女の眼の色は早春の朝のように澄んで冷たく、初夏の宵《よい》の、明星のように瞳《ひとみ》は熱っぽく輝いた。
「わたしに残して下さった遺産は七万円からあったのです。それから三人の子供をわたしの子にしていたのです。そうして残されたものが、わたしのものではないように、他人《ひと》がとやこういって、肝心のわたしが頭をさげて利息をすこしばかり貰《もら》いにゆくという、おかしな事がありましょうか?」
 そんなばかなことをと、誰しもがその時答えるであろう。ましてわたしには、数字は違っているが、そんな運命にあって、二人の男の子を抱いて、物価騰貴のおりから苦しんでいる妹を持っているので、他人《ひと》ごとならず感じられた。此処にもそうした女性があるのか、女というものはどうしてこうまで虐《しいた》げられ、自己の権利を蹂躙《じゅうりん》されるものかと怒りがこみあげてくるのであった。
 そのおり令妹のしげ子さんがはじめて口をはさんだ。
「わたしは姉ともう五年一所に暮しています。はじめは、姉が寂しい気持ちのドン底にいた時に、わたしというものを思出して呼びよせたのです。わたしと姉とは、まるで育ちも境遇も違うので、行ってもどんなものかと思ったのでしたが、来て見ると、聞くと見るとは大違いなので離れる事が出来なくなりました。あの時は、全く姉は孤立で、真に心淋しかったのだろうとよく思出します。世の中の噂のようなことが本当ならば、わたしは志望《こころざ》した道を投捨《なげすて》てまで、五年間もこうして姉さんをたすけていやあしません。姉さんの犠牲になって、こうした商業《しょうばい》の帳附けや監督になんぞなりはしません」
と、しんみりと言った。全く彼女にはそう思えたに違いない。秋田で育って県の女学校にはいり、女医を志望していた人には、あまりな商業《しょうばい》ちがいである。
「全くこの妹には気の毒だったのですけれど――この妹でもいてくれなくっちゃ、――この家業だって、ビールか葡萄酒《ぶどうしゅ》でなくっては、西洋のお酒の名さえ分らないのではねえ」
 お鯉は眼をふせて面伏《おもぶ》せそうに笑ったが、
「わたしにしてもよくよくだったのです。姉さんが気の毒でとても離れられなかったので、一緒にいろいろ心配もしましたが、その頃のことはわたしも知りませんでしたけれど、あとで聞いて見ると、姉は、自分の事は自分でする、他人の差図《さしず》やお世話にはなりたくないと思っていたらしかったのですね」

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