だと思って、ほんとうにはなし好いわ。貴女だって、まさか、そうしてまで来てくださって、皆とおんなじようなことはおっしゃるまいから」
 そういうと女将は変な顔をしてしまった。そして、これはしまったというように、
「そんな事いっちゃ、あたい困っちゃうね。そんなつもりじゃなかったのだよ。こうして来たらば、あたしのいうことを何でも聞くかと思ってさ」
と化《ばけ》の皮を現わしてしまった。
「そりゃあいけないわ女将さん。ふだんの姿《なり》だとあたしにも義理があるけれど、袈裟をかけていて下さるとほんとに話好いのだから。第一あなたも苦労人じゃないか、先方のいうことばかりを聞いて、こっちになって考えてくれないからですよ。よく思って見ておくんなさい。誰が一番可哀そうなの、旦那には離れるし、これからさきどうしてゆこうと苦労しているものの身になって考えて御覧なさい。貞操を守れったって、はい守りましょうといって守れなかったらどうするの、かえって恥じゃありませんか? そんなことは約束するものじゃありますまい。それから子供のことだって、十二人もある子供で、腹違いが多いから、お前の子として育って来たものを、また他《ほか》の者の手へ渡しては子供が可哀そうだからと、すっかりあたしの子になさったのを、誰に教育をたのもうというのでしょう。犯《みだ》りに外出をいたさぬ事というのも、あんまり人を人間でないように思っているじゃありませんか、旦那の在世のうちだって、一々本邸へ電話をかけて、許しをうけなければ一足も外へ踏みだせなかったので、つい面倒くさいから芝居ひとつ見ないようになってたじゃありませんか。これからこそ、気楽にして暮したいと思うのに、なんだかんだと煩《うる》さい事を聞くのも、それもお金があるからだと、つくづくほしくなくなっちゃったんです。もともとあたしのものなのだから井上の御前にあげましょうって言うだけなのですわ」
「そう言われればそうだけれど、あたいは困っちゃったね」
 困っちゃったと口にはいっても、言われないとこまでも女将の胸には梁みたのであろう。なぜならば、わたしは或折この女将の洩《もら》した歎息と、述懐を聞いたことがある。
「あたしはありとある愁《つら》い経験をもっていて、いろいろな涙の味を知りつくしている。だから、どんな芝居を見ても面白い、感動する。なぜならそのどれにも共鳴するものを噛《か》み
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