、店さきに、みんなゆっくり待ってやはるのえ。東京の人のように駈《か》けだすものありゃへんわ。フランスで、雨にあって、もうやむのがわかっていても、駈出すのは、日本人ばかりやいうけれど――」
「西京《こちら》のものは、さいなことしやせん。そんなら、パリというところ、京都に似てるやないか。」
「しっとりした都会《とち》で、住んだら、住みよいところで、離れにくいそうやが――」
母子がそんな話をしているときに、モルガンの父の病気が重いという、知らせが来た。
幸福は永久のものではない。モルガンは一足さきに立ったが、父親には死別した。お雪は一月ばかりしてフランスへ後から帰った。それが母親への死別となった。
モルガンは、父の莫大《ばくだい》な遺産を継いだ。お雪もパリの生活が身について来たが、やっぱり初めのうちは、デパートへ行けばデパート中の評判になり、接待に出た支配人が、友達たちに、お雪さんの観察評をしたりするように、煩《うる》さかったが、アメリカ社交界とはだいぶ違っていた。
シャンゼリゼの大通りを真っすぐに、パリの、あの有名な凱旋門《がいせんもん》の広場は、八方に放射線の街路があるそうだが、モルガンの住宅は、アベニウホッシュのほとりだという。
森とよばれる、ブーローニュ公園を後にした樹木に密《こ》んだ坂道の、高級な富人の家ばかりある土地で、門構えの独立した建築物《たてもの》が揃《そろ》っているところにお雪は平安に暮してはいる。しかし、日本人ぎらいの名がたつと、誰一人付きあったというものがない。
マロニエの若葉に細かい陽光の雨がそそいでいるある日のこと、一人の令嬢《マドモアゼル》と夫人《マダム》が、一人の日本婦人を誘って、軽い馬車をカラカラと走らせていた。
「オダンさまの夫人《おくさま》。」
と、美しい夫人《マダム》はいった。
「そのお邸《やしき》が、モルガンさんのお宅だそうですが、お訪ねなすったらいかがです。」
フランスのオダン氏は、日本の美術学生の面倒を見るので有名で、世話にならない者はないほどだった。夫人は日本婦人で、お雪の年頃とおなじほどだった。
「でも、」
と、オダン夫人は考えぶかく同乗の女《ひと》の好意を謝絶《ことわ》った。
「あまり、お逢いなさりたがらないそうですから――」
そうした、おなじ国の、おなじ年頃の、フランスの人になっている、おなじ京都の女性《ひと》にさえお雪は往来《ゆきき》がなかったのだ。生家へも、母親の死んだあとはあまり便りがなく、一昨年《おととし》京阪を吹きまくった大暴風雨《おおあらし》に、鴨川の出水をきいて、打絶えて久しい見舞いの手紙が来たが、たどたどしい仮名文字で、もはや字も忘れて思いだすのが面倒だとあった。
だが、母のない家へも仕送りは断っていない。財産管理者から几帳面《きちょうめん》に送ってきた。
お雪には子はないのか――誰も子供のことをいわないから最初からないのであろう。モルガンは四十三歳でこの世を去ってしまっている。
それは、世界大戦のはじまった時だった。紐育《ニューヨーク》に行かなければならない用事があって、モルガンはお雪を残して単独で行ったが、フランスが案じられるし、ぐずついていると、ドイツの潜航艇が、どんなに狂暴を逞《たくま》しくするかしれないと、所用もそこそこに、帰仏をいそいだのだった。モルガンが乗っていたのは、あの、多くの人が怨みを乗せて沈んだルシタニヤ号だった。どうも汽船ではあぶないという予感から、ジブラルターで上陸し、一日の差で、潜航水雷の災難からは逃れたが、どうしても死の道であったのか、途中スペインのセヴレイまで来ながら、急病で逝《い》ってしまった。
それからのお雪は、異郷で、たった一人なのだ。
――来年あたり帰りたいが、一人旅で、言葉も不自由だというおとずれが、故郷へあったと聞いている。
それがもとでの間違いであろうが、祇園町にいた老女《としより》が、東京のあるところへ来て、
「お雪さんが帰って来てなさるそうや。昔の学生さんのお友達で、留学してやはった、大学の教師さんと夫婦になって――」
それは、誤伝の誤伝だった。あちらに長くいて、映画では東郷大将に扮《ふん》したという永瀬画伯が、お雪さんだと思って結婚したとかいう婦人と、久しぶりで帰郷したことの間違いだった。その婦人は十歳位からフランスで育ち、ある外国人の未亡人で、女の児がある浅黒い堂々とした女だということだ。
お雪は、パリの家に、ニースにただ一人だ。いえ、ニースでは、イタリア人が一緒だったというものもあるが、モルガンのない日のお雪は、孤独だといえもしよう。
底本:「新編 近代美人伝(下)」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年12月16日第1刷発行
1993(平成5)年8月1
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