ない前に、モルガンは惚れた人がある。それは、芝山内《しばさんない》の、紅葉館《こうようかん》に、漆黒の髪をもって、撥《ばち》の音に非凡な冴《さ》えを見せていた、三味線のうまい京都生れのお鹿《しか》さんだった。
 お鹿さんは、お雪とは、全然|容子《ようす》の違う、眉毛《まゆげ》の濃い、歯の透き通るように白い、どっちかといえば江戸ッ子好みの、好い髪の毛を、厚鬢《あつびん》にふくらませて、歯ぎれのよい大柄な快活な女だった。
 お鹿さんは江戸の気性とスタイルを持った京女――これは誰でも好くわけだ。前代の近衛《このえ》公爵のお部屋さまになる女《ひと》だったが公爵に死なれてしまった。筆者《わたし》が知っている女では、これも、先代か先々代かの、尾張《おわり》の殿様をまるめた愛妾、お家騒動まで起しかけた、柳橋の芸者尾張屋新吉と似ている。私が新吉を知ったのは、愛妾をやめたあとだから、幾分ヤケで荒《すさ》んでいたが、当代の市川|猿之助《えんのすけ》の顔を優しくして、背を高くしたらどこか似てくるものがある女《ひと》だった。
「おしかさんは、支那の丁汝昌《ていじょしょう》が、こちらにお出《いで》になったころ、とても思われていたのですよ。」
と、ある時、紅葉館で、一番古参だったおやすさんという老女《ひと》が、わたしにしみじみ話してくれたことがある。
「おしかさんの傍をお離れにならないで、それはお可哀そうだったの。」
 それでも、おしかさんは、みんなが別格にあしらっていたほど、近衛さんの思いものだったから、丁汝昌は清国《くに》へかえってからも、纏綿《てんめん》の情を認《したた》めてよこしたといった。
 日清《にっしん》戦争がはじまってからも、水師提督はおしかさんを忘れなかったのだということを、お安さんは知っていたという。だが、二十八年二月、日本海軍が威海衛《いかいえい》を占領した時に、丁汝昌は従容《しょうよう》と自殺してしまったのだ。
 その後、幾度か、あたしはおしかさんの秘話を聞いて、一人の女性の運命と、生きていた時代との記録を残しておきたいと思いながら、その機会《おり》を失って、今では、当のおしかさんも、おやすさんも死んでしまったので残念におもっている。
 丁汝昌の死は、モルガンが最初に来た年より、ほんのすこし前のことなので、おしかさんがモルガンの懇望も相手にしなかったのは当然のことだが、
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