も多かったので、種々《いろいろ》話をしているときもあった。川上の他に、藤沢浅二郎《ふじさわあさじろう》は新聞記者だとか、福井は『東西新聞』にいたがとか、壮士芝居の人物を月旦《げったん》していることもあった。見物をたのまれて母なども行ったらしかった。とはいえ、興味をもっても直《すぐ》に忘れがちな子供のおりのことで、川上音二郎が薩摩《さつま》ガスリの着物に棒縞《ぼうじま》の小倉袴《こくらばかま》で、赤い陣羽織を着て日の丸の扇を持ち、白鉢巻をして、オッペケ節を唄わなかったならば、さほど分明《はっきり》と覚えていなかったかも知れない。
しかし子供ごころに、オッペケペッポの川上はさほど傑《えら》い人だと思っていなかった。それよりも芳町の奴の方が遥《はる》かに――芸妓でも抱《かか》え車《ぐるま》のある――傑い女だと思っていた。なんで、川上のおかみさんになぞなるのだろうと、漠然《ばくぜん》とそんなふうに思ったこともあった。その後、川上座の建築が三崎町《みさきちょう》へ出来るまで、奴の名には遠ざかっていた。
けれどもそれはわたしが彼女の名に接しなかっただけで、彼女には新らしい生活の日の頁が、日ごと
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