々場でである。見る人もまた一国一都の人ばかりでなく、世界各地の人を網羅し尽している。その折に、その中で、耳目を聳《そば》だたして開演する事が出来ようとは、いかに熱望していたとはいえ、昨日までの田舎廻り、乞食芝居の座員には、万に一の希望も絶望であろうとされていたものが――加うるに日本劇川上一座の人気は、空前絶後とされ、夢想にも思いも浮べぬ、彼地の劇界を震撼させたものであった。なおその渡仏の前、ボストンで英吉利の名優ヘンリー・アーヴィングの「マーチャント・オブ・ベニス」が当ったのにかぶせて日本風に改作し「シャイロック」として上演したが、その入場券一|弗《ドル》が三弗五弗というふうに競上《せりあ》げられたというのは、もの珍らしさが手伝ったとはいえ大成功といわなければならない。かくして帰還した川上夫妻の胸には、仏蘭西の芸術家が重く見るオフシェ・ダカジメ三等勲章が燦《さん》としていた。
貞奴、貞奴、その名は日本でより海外に高く拡《ひろ》まった。名実《めいじつ》は川上一座でも、彼の一座でなく彼女の一座として歓迎された。一度帰朝した彼女らは陣容を改め、今度こそ目的のない漫然とした旅役者ではなく、光彩ある日本劇壇として明治三十四年に再び渡欧した。座長はいうまでもなく川上音二郎、星女優《スター》は貞奴、一座の上置きには故藤沢浅二郎、松本正夫、故土肥庸元(春曙)の諸氏のほかに、中村仲吉という女優(この優《ひと》は大柄の美人で旅廻りの女役者としてはほんとに芸も立派な旧派出の女であった)を加えて一行は廿六、七人であった。仏、英、露、独、西、伊、墺、匈の諸国を巡業し到る処で大歓迎をうけた。この興行から帰って来ると故国日本でも貞奴を歓迎して、化粧品には争ってマダム貞奴の仏蘭西土産であることを標榜《ひょうぼう》した新製品が盛んに売出され、広告にはそのチャーミングな顔が印刷されたりした。そして、川上の懇望によって、故郷の檜《ひのき》舞台に、諸外国の劇壇から裏書きされてきた、名誉ある演伎《えんぎ》を見せたのは、彼女が三十三歳の明治卅五年、沙翁《セクスピアー》の「オセロ」のデスデモナを、靹音《ともね》夫人という名にして勤めたのが、初舞台である。そして亡夫の七回忌にあたる大正六年十月、日本橋区久松町の明治座で女優生活十五年間の引退興行を催し、松井松葉氏によって戯曲となった、伊太利《イタリア》の歌劇「
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