学をしてのち詫《わ》びにくるから、奴は手許《てもと》へあずかっておいてくれと詫を入れた。けれど亀吉はいっかな聴《きき》入れはしない。
「もとの通りにして返したならば受取ろう。」
 それが養母の答えであった。川上は是非なく、同郷の誼《よしみ》のある金子堅太郎男爵の許に泣付いていった。何故ならば、金子男が、伊藤総理大臣の秘書官のおり、ある宴席で川上の芝居を見物するように奴にすすめて、口をきわめて川上の快男子であることを説いた。そうした予備知識を持って、はじめて川上を見た奴は、上流貴顕の婦人に招かれても、決して川上が応じてゆかないということなども聴いて、その折は面白半分の興味も手伝ったのであったが、友達芸妓の小照と一緒に川上を招いて饗応《きょうおう》したことがある。それが縁で浜田屋へも出入《でいり》するようになり、伊藤公にも公然許されて相愛の仲となり、金子男の肝入りで夫妻となるように纏《まとま》った仲である。それ故、そうことがもつれてむずかしくなっては、金子氏にすがるよりほか、養母も奴も聴入れまいと、堅い決心をもって門をたたいたのであった。その代りには断然不始末のあとを残すまいという条件で持込んだ。そして、漸《ようや》くその件は落着した。
 ひとつ過ぎればまたひとつ、内憂に外患はつづいて起った。夫妻が漸《よう》やっと笑顔《えがお》を見せるようになると、またしても胸に閊《つか》える悩みの種、川上座の落成に伴う新築披露、開場式の饗宴などに是非なくてならない一万円の費用の出どころであった。けれども奴の手許からは出せるだけ出し尽している上に、五万円の方もそのままになっている。開場式さえあげれば入金の道がつくので、それを目当にして高利貸の手から短かい期限で、涙の滾《こぼ》れるような利子の一万円を借入れ、新築披露の宴を張り、開場式を華々しく挙行した。
 川上座――この夫婦が記念としてばかりでなく、劇壇新機運の第一着手の、記念建物としても残しておきたかった川上座は、三崎町の原に、洋風建築の小ぢんまりとした姿を見せた。いまは冷氷庫《こおりぐら》になってしまったあの膨大な東京座も、その頃新築され、後の方には旧女役者の常小屋《じょうごや》の、三崎座という小芝居があった。夏などは東京座や川上座へゆくには、道が暑くてたまらないほど小蔭ひとつない草いきれのしている土地であった。そのくせ、座へはいっ
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