た人々が、みな適当な位置に配置されて、彼女の生れてくるのを待つ運命になっていた。
 もし彼女の生家が昔のままに連綿としていたならば、マダム貞奴の名は今日なかったであろう。新女優の祖《はは》川上貞奴とならずに堅気《かたぎ》な家の細君であって、時折の芝居見物に鬱散《うっさん》する身となっていたかも知れない。
 明治維新のことを老人たちは「瓦解《がかい》」という言葉をもって話合っている。「瓦解」とは、破壊と建設とをかねた、改造までの恐しい途程《みちのり》を言表《いいあら》わした言葉であろう。すべての旧慣制度が破壊された世の渦は、ことに江戸が甚しかった。武家に次いでは名ある大町人がバタバタと倒産した。お城に近い日本橋|両替町《りょうがえちょう》(現今の日本銀行附近)にかなりの大店《おおだな》であった、書籍と両替屋をかねて、町役人も勤めていた小熊という家もその数には洩《も》れなかった。家附《いえつき》の娘おたかは御殿勤めの美人のきこえたかく、入婿《いりむこ》の久次郎は仏さまと呼ばれるほどの好人物であった。そうした円満な家庭にも、吹きすさぶ荒い世風は用捨もなく吹込んで、十二人目にお貞と呼ぶ美しい娘が生れたころは、芝|神明《しんめい》のほとりに居を移して、書籍、薬、質屋などを営んでいた。しかも夫婦は贅沢《ぜいたく》を贅沢としらずに過して来た人たちであったので、娘たちを育てるにもかなり華美な生活をつづけていた。次第々々に家産が傾くと知りつつもそれを喰止《くいと》めるだけの力がなかった。終《つい》に窮乏がせまって来て十二人目の娘を手離すようになった。そしてお貞という娘が、他家で育てられるようになったのは彼女の七歳のときからで、養家は芳町の浜田屋という芸妓屋であった。
 浜田屋の亀吉は強情と一国《いっこく》と、侠《きゃん》で通った女であった。豪奢《ごうしゃ》の名に彼女は気負っていた。その女を養母とした七歳のお貞は、子供に似合わぬピンとした気性だったので、一寸《いっすん》のくるいもないように、養母と娘の心はぴったりと合ってしまった。その点はお貞の貞奴が、生《うみ》の親よりもよく養母の気性と共通の点があったといえる。
 とはいえ、そうした侠妓に養われ、天賦の素質を磨いたとはいえ、貞奴の持つ美質は、みんな善《よ》き父母の授けたものである。優雅、貞淑――そういう社会に育ったには似合わぬ無邪気さ
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