かった貞奴のまぼろしが浮みあがって、共に微笑しつつ、秋田さんの眼にもまだこの幻は消えぬのであろうと思うと、美の力の永遠なのと、芸術の力の支配とに驚かされる。
その話は今から十五、六年前、明治卅五、六年のことかと思う。第二回目の渡航をして西欧諸国を廻って素晴らしい人気を得た背景をもって、はじめて日本の劇壇へ貞奴が現われたころのことであった。独逸《ドイツ》では有名な学者ウィルヒョウ博士が、最高の敬意を表して貞奴の手に接吻《せっぷん》をしたとか「トスカ」や「パトリ」の作者であるサルドーが親しく訪れたという事や、露西亜《ロシア》の皇帝からは、ダイヤモンド入りの時計を下賜《かし》されたという事や、いたる土地《ところ》の大歓迎のはなしや、ホテルの階段に外套《がいとう》を敷き、貞奴の足が触れたといって、狂気して抱《かか》えて帰ったものがあったことや、貞奴の旅情をなぐさめるためにと、旅宿の近所で花火をあげさせてばかりいた男の事や、彼女の通る街筋《まちすじ》の群集が、「奴《ヤッコ》、奴《ヤッコ》」と熱狂して馬車を幾層にも取廻《とりま》いてしまったという事や、いたるところでの成功の噂が伝わって、人気を湧《わき》立たせた。正直な文学青年の秋田氏が、美神《みゅうず》が急に天下《あまくだ》ったように感激したのは当り前だった。そしてまた出現した貞奴も観衆の期待を裏切らなかったのであったから、人気はいやがうえに沸騰し、熱狂の渦をまかせた。そのおり可哀そうな青森の片田舎から出て来ていた貧乏な書生さん秋田は、何から何までも芝居の場代《ばだい》のために売らなければならなかったのだ。場代といっても、桟敷《さじき》や土間の一等観覧席ではない、ほんの三階の片隅に身をやっと立たせるにすぎなかったが、それでも毎日となれば書生の身には大変なことであった。すっかり貞奴熱に昂奮《こうふん》してしまった少年秋田は、机と書籍の幾冊かと、身につけていた着物だけは残したがあとはみんな空《むな》しくしてしまった。しまいには部屋の畳の表までむしりとって売払い、そして毎日感激をつづけていたとさえ言われる。
こんな清教徒《ピュリタン》の渇仰《かつごう》を、もろもろの讃詞《さんじ》と共に踏んで立った貞奴の得意さはどれほどであったろう。それにしても彼女におしむのは、彼女が芸を我生命として目覚め、ふるいたたなかった遺憾さである。それ
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