心中に軽蔑《けいべつ》していたことである。彼女にはともすれば拭《ぬぐ》われがたい汚辱を感じることがあるであろう。夫が無暴《むぼう》な渡航を思立って、見も知らぬ外国へ渡り窮乏したおりのことである。また一座十九人に、食物も与えられなかったおりのことである。雪のモスクワで――さまよいあかした亜米利加《アメリカ》で――彼女が身を投捨て人々の急を救ったといわれている。それは彼女にも苦痛な思出であったであろう。それかあらぬか噂《うわさ》には、折々川上が貞奴に辱《はずか》しめられていたこともあるといわれた。
敬さなければならない第一は、いうまでもなく彼女が女優として舞台生活をする第一歩を与え導かれたことである。彼女の夫が彼女を舞台にたたせたのは、他《ほか》の必要から来た――あるいは人気取り策であったかも知れなかった。けれど、その当否はともかくとして、我国の、新女優の先駆者としては、此後《こんご》どれほどの名女優が出ようとも、川上貞奴に先覚者の栄冠はさずけなければなるまい。技芸はどうでも、顔のよしあしは如何《どう》でも、ただそれだけでも残り止《とど》まる名であるのに、何という運のよいことか、貞奴は美貌《びぼう》であり、舞台も忽《おろそ》かでない。彼女は第二の出雲《いずも》のお国であって、お国より世界的の女優となった。
人はあるいは時勢がそうさせたのだというかも知れない。なるほど彼女は幸運な時に出たのである。とはいえ世人の要求よりはずっと早く彼女は生れ、そして思いがけぬ地歩を占めている。松井須磨子の名は先輩の彼女より名高く人気があるように思われたが、とても貞奴の盛時の素晴しかったのには及ばない。悲しくも年を取るという事が何よりも争われない人気の消長であるのと、よい指導者を持ったと、持たないとの懸隔《かけへだて》が、あの粗野な、とても優雅な感情の持主にはなれない、女酋長《おんなしゅうちょう》のような須磨子を劇界の女王、明星《プリマドンナ》とした。貞奴に学問はなくとも、もすこし時代の潮流を見るの明《めい》があったならば、何処までも彼女は中央劇壇の主星《スター》であったであろう。創作力のない彼女は、川上|歿後《ぼつご》も彼れによって纏《まと》めてもらった俳優の資格を保守するに過ぎなかったが、時流はグングンと急激に変っていった。彼女は端の方へ押流され片寄せられてしまって、早くも引退を名に
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