握手《あくしゆ》、富《とみ》で買ふ人たちだけが不自由する――そんな劇場の一ツや二ツあつてもよい筈だ。ぜひ持ちたい。
 でも興行者側はなんといふか? 少《すこ》しでも障りになるか? いえ、ちつとも痛痒《つうよう》は感じないであらうと思ふ。第一見物が在來の劇場側にちつとも屬してゐない――はいりたくてもはいれない人たちだから。では、高給で抱へてゐる俳優たちを動かされては? さうした心配もまづ無用だと思はれる。小劇場によつて試演される劇は、高價な場代を拂つて樂しむ見物にはあまりよろこばれない代物《しろもの》だと、いはゆる黒人筋《くろうとすぢ》は樂觀するだらう。俳優は給金をとつてはやれない芝居を、眞《しん》に力一ぱいに――それは出來不出來や人氣が生活を脅やかさないグループの中だから、ほんとに熱心にやれるよろこびをもつて、眠つてしまつた藝術慾とおとろへた生活力を盛返すであらう。そしてこの小劇場の會員である事を誇らしくさへ思はなければならなく思ふだらう。尤も此舞臺では役者の等級はない。十代目市川團十郎より、名なしの權兵衞氏の方が、權助の役においてすぐれてゐれば、それが主役であらうと、合議の結果は大劇場の舞臺に出されるをりは組みかへられることになる。
 此處で三十錢説を繰りかへして稱へる。三十錢は安いやうでまだ高いがこれは單《たん》に觀劇料ばかりではない。食べものも含んでゐるので、最初から好むところを述《の》べると、切符は赤、青、白、などの色によつて食事券をも代用する。そして、二階に三階に、左右に、いづれの食堂もよき食事をすこしの騷音もなく、その日の入場者の數と、最初の指定によつた數を、みだれずに配置よく、一人の不滿もないやうに、美くしく心地よく並べる。食事の不滿があつては、いかによき演劇を見せたからとてなんにもならない。
 氣の早い人はもうここらで笑ふでせう。なるほど夢だと――三十錢で、どうしてそんなに何もかもが出來るかと。
 それは立派な劇場を建てるのは非常な金を要し、幾人かの株主がそれを出すかはりに、出したが最後、支出金の何十倍に達する利益を收《をさ》めたからとて、もうよいよ[#「よいよ」に傍点]とは決していはない。だから、こんな劇場は出來よう筈もないが、建築費は無論勘定には入れない、あとはみんな勞資協定、必然《ひつぜん》な費用だけ引いて一錢づつでも殘りを割る。一厘でも一毛でも積立をする。或は最初は無給かも知れない、又は幾錢かを受取る千兩役者も出來るかも知れない。――しかし、料理人もボーイも、切符賣りも道具方も、むだ[#「むだ」に傍点]をはぶけば――つまり怠けてはゐられないと思へば、不必要な懷手をしてゐるおかひこ[#「おかひこ」に傍点]ぐるみの道樂者は退いてしまふ。不入りな高價な興行をつづけるよりは、一年三百六十五日の日はかなりなものを運ぶから三十錢滿員の方が、或は遙《はるか》によい成績をあげないとはいへない。そして利息をもつていつてしまはないから、關係者たちは直に利益をうけることが出來る。そこで、雇《やと》はれた者でない本當の親切が劇場の全部にみなぎる。
 で、その配當は見物の方へも割り戻されてよいわけであるが、數多き人を一人づつ記入しておく事は出來ないから、その配當をもつてますます設備《せつび》をよくしなければならない。雨の日雪の日の自動車は、本所行、市外行、深川行といふ風に、一目でわかるやうに赤い塗《ぬり》や青い色で現はし、なる可く無料で老幼婦女から送り出すやうにする。自動車の厄介にならない男子たちには地下室に理髮や浴場を、入口には靴磨きを――これはちつとおせつかいめくが、誰しも好んでむさくるしいのを悦ぶものはない。心地よさは、やはらぎを與へるものである。そのやはらぎ[#「やはらぎ」に傍点]こそ人類が生きてゆくのに大切な大切な愛ではないか。

 細かしくいへばこの最小劇場の土地は、辨慶橋の中あたりの靜かなところ、長椅子の三ツ四ツをおき、坐るとも腰かけるとも隨意で二階もなにもない。ただ舞臺をこはさないだけの柔らかみのある、贅澤でない居心地のよい無裝飾にちかい一室、階下や階上は、倶樂部や讀書室に貸して、劇場の維持費を助けさせることなど。
 復興局案國立劇場設立地は丸の内の印刷局のあとだつたさうだが、あたしの大劇場は、すこし片寄るが、隅田川を裏にして、淺草藏前の以前《もと》の高等工業學校のあつたあたりにしたい。靜かに開演を待つ若人《わかうど》が河にむかつた讀書室の欄によつて思索し、或はボートをうかべて樂しみ、老人はまたそれを見て笑む――そんなよきことは出來ないであらうか? 借問す、みなさん。

 寶塚歌劇の創始者で、箕面電鐵の專務で、先年脚本集をくださつた東京電燈の重役――近年芝居道の方も大資本家化したので、當り前のことではあるが、劇壇
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