《りつぱ》な劇場は、國賓《こくひん》を招く場合があるとか、なんとかかんとか名をつけて、いはゆる庶民はいつも三階、もしくは四階五階へ押上げられて、一等席は貴女紳士と名づけられるものでなくては許せないとなるとなんのための無代ぞやと言ひたくなる。
 そこで、そんな、削られて消えてしまつた案などにコダはつてゐないで、あたしはいつもあたしのユートピアだと笑はれる、あたしの案の大劇場論をここですこしばかりいひたい。ばかばかしいと思ふ利口者は讀まないでもよいし、理想を實現してくれたいといふ人があれば三拜九拜する。

 食べられない人が多くあるのに、夢のやうな大劇場論など何が必要だと、女人藝術のお友達には叱られるかも知れないが、あたしは脚本作家である故か、劇場の方のことが妙に頭を支配する。
 そこで、あたしはずつと前から大小二ツの劇場がほしいと思つてゐる。一ツは最も小さい、會員組織――重に藝術にたづさはる者のみによるもので、他から望まれたをりは或は一夕の觀覽料を貳百圓からとるかも知れない。なぜならこの會員は、演者も道具方も音樂も、上演脚本もみな會員から出たもので、しかもその劇場の維持費《ゐぢひ》さへ負擔《ふたん》しなければならない集りであるから、そこへ頭《あたま》を突つ込んで、他で見られない高級演劇を見ようとならば、貳百圓が參百圓でも出せる側の人たちには安いものであらう。といふと、この劇はその限られた會員以外には、見るすべがないのかといふとさうではない。それはも一ツの大劇場の方へゆく人たち――民衆劇場とでも大衆劇場とでも、その名はなんでもよい、そこへゆけば、おなじものを見る事が出來るのだ。要するに小劇場で吟味された劇が大衆の前へ、もつとも安價に示されるためにその小劇場の必要があるのだ。
 なぜそんな餘計な手數をかけるのだと言はれるかも知れないが、今の世はあまり安かれ惡かれにしつけ[#「しつけ」に傍点]られてゐる。大量生産のものは品が惡いとされてゐる(圓本は別)。そして勢ひそれが當り前のことになつて、惡いが安いから我慢するとなつてゐる。それがいやだからで、價で見せるのではない。正しい藝術を、みんなの心《こゝろ》の糧《かて》のたしに――心《こゝろ》の糧《かて》といふほどにならずとも、せめて肥《こや》しぐらゐにでもなるやうに――それが望ましいのだ。ほんとに藝術を守《まも》るものと大衆との
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