お灸
長谷川時雨

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お灸《きう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
−−

 お灸《きう》ずきの祖母が日に二三度づつお灸をすゑる。もの心覺えてから灸點の役が、いつかあたしの仕事になつてゐた。五百丁の巴《ともゑ》もぐさをホグして、祖母の背中の方へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《まは》ると、小さい燭臺《しよくだい》へ蝋燭をたて、その火をお線香にうつして、まづ第一のお灸を線香でつらぬき、口の中でブツブツ言つて、體中を手早く御祈祷するやうな手附きをした。いづれなんとか文句があつたのであらうが、おそはつた時から忘れてゐるのだ。祖母が沈香《ぢんかう》をもつてゐたのと、指《ゆび》をやけどしたりすると、チチンカンプンと口で吹きながらいつたのとを、ごつちやにして、なんでも、
 沈香御祈祷、チチンカンプン、チチンカンプンとごまかしたやうだつた。
 その祖母が、自分が灸ずきなのばかりではなく、あたしにも日に二三度すゑなければ承知しなかつた。弱いからといつて――お行儀が惡いからといつて――ハイと言はなかつたからといつて――
 だが、あたしの弱かつたのはお灸のせゐだと今《いま》では思つてゐる。なぜならば、膏汗《あぶらあせ》と精根《せいこん》を五ツ六ツのころから絞《しぼ》りつくしてゐるのだ。ごめんなさいといつたからとて許してくれるものではない、泣けば泣くだけ多くすゑられる。逃げればいよいよ惡化する。跳《は》ねかへさうとすれば、母《はゝ》の大《おほ》きな肥《こえ》えた體《からだ》が、澤庵漬《たくあんづけ》のやうに細つこいあたしの上に乘つて、ピシヤンコにつぶしてしまふ。まつたく或時は、涙とよだれと鼻と汗で、平《ひら》べつたくなつてしまつて起きあがられない事もあつた。そんな時は圖々しいといつて、短氣《たんき》な母《はゝ》の平打《ひらう》ちがピシヤリピシヤリと來て、惡くするとも一度熱い目にあはされたりした。そして、その祖母といふ女《ひと》と、母といふ女《ひと》と、二人の年長者は言つた。
「家《うち》の子は仕置きがきいておとなしい、それにどうやら體も丈夫になつた。」
 子供たちは支那金魚の目玉のやうに、灸のあとのフクレたのを見て悲しみあつた。ホテつて痛むこともあつた。ことにあたしはそれがひどかつた。兩方の人差指の根《ね》もと、足の中指の根もと、おへそ[#「おへそ」に傍点]の兩ワキのは動くので燒けあとが大きかつた。背中は八ツ目鰻の目《め》のやうだといはれた。
 父はよく悲《かな》しがつて女の人たちに言つてゐた。
「肩《かた》だけへはすゑてくれるな。洋服を着たときに困る」
 それ、また、洋服なんて――お父さんが惡いと叱られてゐた。
        ×
 震災のとしであつた。あたしの體はグツと惡く、心も身もクタクタだつた。ある雜誌社の方から親切にお灸をすすめられた。それは肩である。手の甲の眞ん中である。あたしは吐息をついた。父の悲《かな》しがつた言葉を思ひだしたから。
 しかし、灸點師は火をクツツケてしまつた。その後《のち》、小さい女中がすゑてくれることになつたが、十六の小娘のすゑるお灸がバカに熱くてこらへられなかつた。ジリジリと焦げる樣子がをかしいので氣をつけると、それはわざとぢかに火をあててゐるのだつた。お灸をつけておくれといふと大きく丸めて火をつけて、わざと背中を轉《ころ》がす――がまんしてゐると、ますます大きくして熱《あつ》がるかと樣子を見てゐる。
 あたしは熱がりながら十一二で、おとなしくして、羽箒《はばうき》をもつて、どんなにしたら具合よくゆくかと、細かく神經《しんけい》をつかつて祖母の背中にむかつてゐた自分の姿を思ひ出してゐた。そして自分の後《うしろ》に心《こゝろ》で笑つてゐる娘《むすめ》を見てゐた。その娘は非常に醜《みにく》くて青い鼻《はな》汁をグスグスいはせてゐるが、××樣があたしをくどくのなんのと書いた紙《かみ》を捨ておいて、いつもあたしを困らせてゐるのだつた。氣をつけて――と頼《たの》むよりは、他《ひと》の手をかりなければならないことで、しかも亡父があれほど氣にしてくれた肩《かた》なのだから、お灸の養生法はそれきりで中止してしまつた。
        ×
 大きな灸《やいと》を心にすゑて苦しむ――それは別の心ゆかせもあらうが、さういふ意味でなく、自分を叱るお灸も心にすゑなければならない。折々思ひだされるのは、もぐさ[#「もぐさ」に傍点]の匂ひと、むかしあたしの膝《ひざ》の前にすわつた祖母と、ついこの間、後から腰へ膝を押しつけたあの娘との、肉體《からだ》を燒《や》くお灸についての異なる感じである。
[#地から2字上げ](「不同調」昭和三年)



底本:「桃」中央公論社
   1939(昭和14)年2月10日発行
初出:「不同調」
   1928(昭和3)年
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
終わり
全1ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング