うづみ火
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)にぎわ敷《しき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二洲|橋畔《けうはん》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)どうして/\
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兩國といへばにぎわ敷《しき》所《ところ》と聞ゆれどこゝ二洲|橋畔《けうはん》のやゝ上手《かみて》御藏《みくら》橋近く、一代の富《とみ》廣《ひろ》き庭廣き家々もみちこほるゝ富人《ふうじん》の構えと、昔のおもかげ殘る武家の邸つゞきとの片側町《かたかはまち》、時折車の音の聞ゆるばかり、春は囘向院《えかうゐん》の角力《すまふ》の太鼓夢の中に聞《きい》て、夏は富士|筑波《つくば》の水彩畫を天《てん》ねむの後景として、見あかぬ住居《すまゐ》さりとて向島根岸の如き不自由は無《なく》、娘が望《のぞみ》かなひ、かの殿の内君とならば向河岸に隱宅《いんたく》立《た》てゝと望《のぞむ》は、あながち河向ひの唄女《うたひめ》らが母親達のみの夢想にもあらぬぞかし。
洗出《あらひだし》の木目の立《たつ》た高からぬ塀にかゝりて、盛《さかり》はさぞと思はるゝ櫻の大木、枝ふりといゝ物好な一構《ひとかまへ》、門の折戸片々いつも内より開かれて、づうと玄關迄御影の敷石、椽無《ゑんなし》の二枚障子いつも白う、苔井《こけゐ》のきわの柿の木に唯一ツ、光《ひかる》程じゆくした實の重さうに見へる、右の方は萩垣《はぎかき》にしきりて茶庭ら敷折々琴の昔のもるゝもゆかし。
安井別宅との門札《もんさつ》、扨は本町のかど通掛りの人もうなづく物持《ものもち》、家督は子息にゆづりて此處には半日の頃もふけし末娘、名さへ愛とよぶのと二人先代よりの持傳《もちつたへ》家藏はおろか、近頃手に入し無比の珍品、名畫も此娘《これ》の爲には者數《ものかず》ならぬ秘藏、生附《うまれつき》とはいへおとなし過《すぎる》とは學校に通ひし頃も、今|琴《こと》の稽古にても、近所の娘が小言の引合は何時も此家《こちら》の御孃樣との噂聞に附、尚々父親の不憫《ふびん》増《ます》なるべし。
いつもはお庭に松葉《まつば》もは入《いる》時分秋頃から御隱居樣のはさみの音も聞えず、どうかなされた事かと拾八九の赤ら顏紫めりんすと黒の片側帶氣にしつゝめづら敷《しく》車《くるま》頼《たのみ》に來たお三をつかまえて口も八町手も八町走るさすが車屋の女房の立咄《たちばなし》、どうして/\御庭いぢり所か御本宅にては御取込で御目出度けれど、此方樣《こちらさま》では秋からかけて孃樣の御病氣、御隱居樣の御心配それは/\實に御氣《おき》の毒でならぬ、今年は菊も好《よく》出來たけれど御客も遊ばさぬ位、御茶《おちや》の會御道具の會、隨分|忙敷時《せはしいとき》なれどまるで、火が消たやう、私らも樂すぎて勿體無早く全快《おなをり》遊《あそ》ばすやうにと祈つては居《をる》けれ共、段々御やつれなされてと常にも似ず凋《しほ》るゝに、それは/\知ぬ事とて御見舞もせなむだがさぞまあ旦那樣《だんなさま》は御心配、御可哀想に早く御全快おさせもふし度《たい》、そして又御本宅の御取込とは御噂の有た奧樣の御妹子が御方附になるの、彼宅《あちら》は御目出度事さぞ此宅の旦那樣もどんなにか御うらやま敷《しい》だろふねとの同情、ほむに御隱居樣も御出掛遊ばすのであつた、急《いそい》で御頼申升よ御藥取に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]らねばとかけ行に、女房も無言で塵除《ちりよけ》はづして金紋の車念入に拂、あづかりの前掛てうちん取揃《とりそろ》えれば亭主の仕度も出來ぬ、今迄は無沙汰したのが面目無《めんもくない》何と御見舞言た物《もの》やらと、獨言引出したとたんがら/\と淺草の市歸《いちかへり》か勢よく五六臺、前後して通ぬけぬ。
風は寒《さむい》が好天氣淺草の觀音の市も大當《おほあたり》、川蒸汽の汽笛もたえずひゞく、年の暮近し世間は何と無《なく》ざわめきて今日はいぬの日、明日はねの日とりの日、扨も嫁入ざたの多事《おゝいこと》今宵本宅の嫁の妹|折枝《をりえ》とて廿を一越た此間迄寄宿舍|養《そだ》ち、早くから姉夫婦に引取れて居たので、本家の娘として此處の孫としての嫁入、進まぬながら是も義理と、ひる前に隱居も古銅《こどう》の花瓶と、二幅對の箱と合乘でゆかれた跡《あと》入替《いりかはり》に、昨日花屋から來た松の枝小僧が取にくる、御上《おうへ》の分《ぶん》下《した》の分とわけた御膳籠《ごぜんかご》もは入附添の手代より目録もそれ/\行渡り役目すめば御祝酒の※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りて女子供《おなこども》にざれかゝり大聲立て、ばあやにゝらまれこそ/\と出行跡《いでゆきしあと》、ばあやも跡の事心附て自慢のかね黒/\と大奧樣が形見《かたみ》の鼠小紋三紋附着ておよろこびやら、皆々の御禮も兼て。
さ今の内お風呂《ふろ》にでもおは入《いり》なさつて少し御庭でも御覽なさいまし、おやすみ遊ばしての内私が御附申て升柄《ますから》と、看護婦に替《かはり》しは兼《かね》とよびて年も同十七の氣に入、差よつてほつれ毛をかきあぐればほろ/\と涙《なみだ》白枕《しろきまくら》に毛布に、お孃樣御察申升かねは口惜て/\彼方の奧樣に喰附てやりとう御座升《ございます》、ばあやさんもばあやさんだ貴女の敵におよろこびにゆくなむて、義理だつても私口惜貴女/\はなぜ、御教《おをしへ》申《もうし》たやうに御父樣や御兄樣におつしやらなかつたので御座升よお孃樣、唯心で涙をこぼしていらつしやる柄猶御病氣も重り升わと、主人ながら友達《ともだち》共思ふ仲よしのかうは言《いつ》た物の、言過て病にさわりはせぬかと今更冷汗色をかえての心配顏、嬉敷《うれしい》に附我身のかひ無《なさ》は堪兼《たえかね》て夜着に顏差入て忍なき、兼が進る藥に息をついて兼やもう御言《おいゝ》で無よ、此樣な病になつた爲父樣と姉樣の御仲も丸く美敷《うつくしく》すんだのは、家の爲によろこんでいるは私、靜夫樣は肺病だからとて死と定《きま》つているではなしと、言はつて下すつた物の先樣でもお一人子御兩親の御不服《ごふふく》なのは、あたり前だわね、ちいつともうらむ事は無ねえ兼、よし折枝《をりえ》さんがゆかぬにした所がどうでよそからおもらひ遊ばすのだ物、御姉樣の御望《おのぞみ》をかなへた方がねそうであらふだが今朝も父樣が悲想《かなしそふ》なお顏を遊ばして、私しや自分の慾はあきらめているがせつ角父樣もゆるして下すつて、だが父樣はどうして靜夫樣と御知りなすつたのだろふ、兼《かね》知《しつ》て居て、知ている所か私柄と、いやまて思は思を生《うん》で心經の高ぶつて居今、先《まづ》何事も胸にと、ほんに承はれば兼がわるう御座升だが孃樣御結婚はなさらず共御心に替り無《なく》ば、お嬉しう御座ませう靜夫樣も決て貴女をおわすれは、これ覺《おぼえ》がお有でせうと取出す手箱の内|香《にほ》わせし白ばら一輪、中に深《み》雪つもる夜の明星かとばかり紫匂ふダイヤモンド、此|指輪《ゆびわ》は彼人の手に日頃光しそれよ白ばらは二人が紀念《きねん》の、さゝやきし其時の息やこもるなつかしやとばかりつく息も苦氣《くるしげ》なり。
兼《かね》が涙ながら來し頃は早暮て、七間間口に並びしてふちん門《もん》並の附合《つきあひ》も廣く、此處一町はやみの夜ならず金屏《きんびやう》の松盛ふる色を示前に支配人の立《たち》つ居つ、何の奧樣一の忠義振かと腹は立どさすが襟《えり》かき合せ店に奧に二度三度心ならずもよろこび述て扨孃樣よりと、包《つゝみ》ほどけば、父親の好《このみ》戀人の意匠、おもとの實《み》七づゝ四分と五分の無疵《むきず》の珊瑚、ゑりにゑりし花笄《はなかうがい》、今宵の縁女となる可、兄より祝物、それを贈《おくる》心《こゝろ》はと父親も主もばあやも顏見合すれば兼《かね》は堪かねて涙はら/\こぼしつゝ外にも一品|花嫁《はなよめ》には幸に見られねど盃受く靜夫はわな/\と、打ふるひぬ、つき上る苦敷《くるしき》思《おもひ》も涙も共に唯一息眼つぶりてのみ込ば、又盃は嫁に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りぬきらりと取手《とりて》に光物靜夫が目に入し時、花笄の片々する/\とぬけて、かた袖仲人が取つくろふひまも無、盃臺のわきにみぢんとなりておもとの實は、ころ/\と靜夫《しづを》が袴の前にころがりぬ。
祝儀《しうぎ》すむやそこ/\定紋の車幾臺大川端の家にとむかへり、あわれ病人《やむひと》やあつしくなりにしがあたゝかき息こもるうばらの園《その》うやさまよう、細き息の通ふばかりとや、にぎしき家の外にも淋敷《さびしき》こゝの庭木にも夜一夜《よひとよ》木枯の吹あれて、あくるあしたよりあわれ父翁の面痩《おもやせ》目《め》にたちぬ。
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「うづみ火」のこと
陸中國釜石鑛山内水橋康子として懸賞に應募し、明治四十三年十一月號の『女學世界第一卷第十五號定期増刊「磯ちどり」才媛詞藻冬の卷・小説』の初頭に掲載され特賞(賞金十圓)を得、又主幹松原二十三階堂(岩五郎)氏に激勵鞭撻の書簡を送らる。當時病後靜養に釜石鑛山所長横山氏家に遊行中の事なり。二十三歳の秋、處女作。未だ「しぐれ女」のペンネームを使用せず。
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底本:「時代の娘」興亞日本社
1941(昭和16)年10月22日発行
1941(昭和16)年11月26日再版
初出:「女學世界第一卷第十五號定期増刊「磯ちどり」才媛詞藻冬の卷・小説」
1910(明治43)年11月号
※底本では表題の下に、「(處女作)」と入っています。
入力:門田裕志
校正:野口英司
2010年2月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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