らしい後姿を見たことを話してくださつたのには、黒い洋服で、長《なが》い羽根《はね》のついた帽子、袋とか籠とかを腕にして、齡《とし》をとつてゐたさうだが、それは、およそ私の友達が死ぬまでもしさうにもなく、想像にもさうは思はれない姿だつた。私は鼠色の彼女が繪ハガキへ書いてよこしたパリ・オペラ座《ざ》のやうに、どつしりしてゐるが、古《ふる》びた鼠色で彼女があつてくれないことを、友達の名譽恢復のために祈つて、扉の外で待つた。
 私の友達は、すこし意固地なくらゐ我儘なところがあつて、身にそぐはない洋服や帽子の飾りをつけて歩くことの出來る氣質《たち》ではなかつた。三年や五年着るものに不自由するとは思へない。彼女は白い足袋がなくなれば、足袋もつくれるし、草履も工夫して造れる人だ。まして着物でも帶でも、きちんとした裁縫が出來る。身の※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りのもの一切自身でととのへられないものはないのだ。若い時から日本髮さへひとりで結《ゆ》へたのだつた。私たち明治時代に生れたものは、心は新らしいものを貪りながら、躾《しつけ》られたことは昔の女とおんなじだつたので、身嗜《みだしなみ》には頑固《かたくな》なほどだつた。ことに友達は目立ない澁いつくりを好んだ。流行や周圍に負ける人ではなかつた。吟味のゆき屆くたちだつた。西洋のお婆さんになつたとしても、好《この》みのよいことに異《ちが》ひはない筈だ――
 と思つてゐると、すこし痩せたかと思ふが、あの、ありあまる髮をキユツと〆《しめ》て、無造作に卷いた、色の白い顏が笑つた。胸もともキチンとした縞の着附けで、例によつて灰拔《あくぬ》けのした瀟洒な彼女だ。この間、讀賣新聞の文藝欄が傳へた、日本劇の衣裳や監督をしたといふ時の、他の人と竝んで寫つてゐた、寫眞とちつとも違はなかつた。
 私はパリで逢《あ》つてゐるといふ事なんぞは素《す》つとばしてしまつて、勝手にいつたものだ。
「甘いものそんなに好きぢやないの知つてるんだけれど、果實《くだもの》は送らなくつたつてあるだらうし――」
 私はくすくすと笑ひだしてしまつた。友達は蜜柑があんまり好きで膽石を患《わづ》らつたことがあつたのだ。ずつと前にも急病だといふので澁谷の家へ急いでいつたら、矢つ張り蜜柑の食べすぎだつた。私が行くと、寢臺の下《した》へ、あわてて蜜柑の皮が山のやうになつてゐるお
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