部が出來た時分は、日本室の大廣間を宴席にするをりなど、それからそれと聞いて借りに來た。
 唐の郭子儀といふ人は、八十五歳まで生きて、子孫多く、臣下でも王とよばれ、功成り名遂げた人だといふので、そのいみじき福にあやかれと、祝はれたものであらうが、實はその双幅は、幾人かの婚禮に――婚禮にといふより、その結果に面白くないことがあつて、父はそれを、よろこんで人に貸さなくなつてしまつた。嫌氣《いやき》がさしたのかどうか、後には他人に讓つてしまつた。しかし、その軸をかけたら、あの縁組みの後日も、この縁組みののちも、悲しみがあつたといふわけではないのに、變なはめ[#「はめ」に傍点]で、めでたい筈の「郭子儀」の雙幅が、不目出たいものにされてしまつたが、もとよりその罪は此幅にあるのでなく、その時代の風習こそ呪ふべきだつたのだ。
 床の間に掛けた「郭子儀」の幅に、不結果な婚姻《こんいん》の罪をなんで着せたか――明治中期は封建的遺産を多分に保つてゐた。といふより、結婚成立の道程などは、明治のはじめに文明開化と、舊弊なチヨン髷を切りとつてしまひながら、頭中のシンは、いつまでも古くさくて、そつくりそのまま昔通り。しかも、もつと惡いことには、資本主義勃興の時代となり、一にも、二にも、金、金。その底にはまだ士族がはばをきかせ、平民より一階級上のやうな顏をするので、町家でもまだ家柄も尊敬される。で、金があつて古い暖簾で、今日の商業が活溌といふ家が、下町では鼻息が強く、その次は、成上りでも出來星でも金※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りのよい大商店。官員がさほどに騷がれなかつたのは、もはや一時期を越して、人氣が落ちついたといつたはうがよいか、前代からの商業中心地は、月給とりは取り高がわかつたからといふよりも何よりも、まづもつて、やはり前代の思想をうけついで、人物に嫁ぐよりは、家に、家名に、釣りあひのとれた――又はそれ以上の資産を嫁の方の親が望んだ。それが破綻《はたん》の原因であることを、迂濶にも知らなかつたのだ。周圍がそんな無理解ななかにあつて、深窓に育つて、世の風に當らないから、なんにも知らないでゐるであらうとばかり、親や其他に思ひこまれてゐた娘たちは、その娘自身が、なんの覺醒をもつてゐないにしてからが、底に流れてゐた、激しい時流――女性先覺者が身を挺して進んでゐた氣運を何となく魂に感じて、蠢きそめてゐたをりであつたから、ただ一連《ひとつら》に從順にはなりきれなかつたのだ。そのための破婚もあつたであらうが、その中で、あまりにも無智にさへ思はれた結婚が二つほど、わたくしの心に忘れないものとして殘つてゐる。
 明治二十年代のはじめだつた。木綿と金物との問屋ばかりが、何十年にも變らぬ近隣づきあひをしてゐるやうな町へ、ある時、パツと明るい色彩を輪入して來た店があつた。名古屋の方から移つて來たとかで、すべての事が、今日でいふ宣傳になつて、美しい娘のゐることと、色とりどりな洋傘《ようがさ》の卸問屋だつたのが、落著きすぎて陰氣なほどの町へ、強い刺戟《しげき》をあたへた。
 その町の娘たちは、わたくしの知つてゐるばかりでも、二人や三人の美人ではなく、しかもそれが、ちよつと群をぬいた麗《うるは》しさだつたが、みな深窓のひととなりで、人の眼に觸れることが尠なかつた。問屋の店の者たちも謹んで噂をするだけだつたが、新しい、洋傘問屋の娘は、紫や、赤や、黄や、青の眩惑《げんわく》するやうな色の、女唐洋傘《めたうがさ》を、開いたりつぼめたり、つるしたりするその店の商業ぶりとおなじく、若者たちの眼をひかないではゐなかつた。彼女のおつくりは濃厚で、可憐といふよりは意識的に魅惑をもつてゐた。その娘が店に出てゐることが多い。こんなことは、男店の多いどつしりした店藏つづきの家には見られないことだつた。その上、夕暮かたになると、彼女たちの一隊は、堅氣な家の家族には見られない身のこなしで、うつくしい年増の母人もついて、女たちばかりで日蓮さまへ日參しにゆくのだつた。
 これは散歩と見ればなんでもないのだが、店の主人でも店用でないときには、新道の裏木戸から見立たぬやうに出歩くのが習慣の近所は、びつくりさせられたのだつた。彼女たちはまたさうして錢湯にゆくこともあるが、新道をゆかずに通り町《ちやう》を歩いた。しかもそれが、各戸の暖簾をはづす暮あひなので、番頭も若主人も、暖簾をはづす時間には、みな店さきへ立つて終日の息をぬいてゐる時分なので、そこへ目新しい華やかな刺戟をうけるのだから、その噂は見る見る擴がつてしまつた。桃色鹿の子の結綿島田の大柄すぎるほどの娘は、實質より人氣で、すばらしい小町娘になつてしまつた。
 その娘が、小船町《こぶなちやう》のたしか砂糖問屋の資産家へ嫁入りすることになつた。その評判
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