「郭子儀」異變
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)柳里恭《りうりきやう》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
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 柳里恭《りうりきやう》の「郭子儀《くわくしぎ》」の對幅が、いつのころかわたくしの生家《うち》にあつた。もとより柳里恭の眞筆ではない。ほんものならば、その頃でも萬といふ級の取引であつたらう。或はわたくしのうちにあつた、その寫しものでも今日の賣立などであつたら、矢張り萬とか千とかいふ代物であつたかも知れない。
 それは、とて大幅で、書院がけとでもいふのか、もとよりわたくしの生家《うち》の、茶がかつた床の間には合ひやうもなかつた。幅二間からある本床でなければ、第一丈がたりないといつた立派さだつた。
 一たい、ものが大きいから立派だとばかりはいへないが、この軸はかなり良かつた。素晴らしいとまではいはないが、たしかに立派なものだつた。子供といふものは妙な直覺があつて、巧手《じやうず》、下拙《へた》より何より、そのものの眞髓に觸れることがあるもので、成人の思ひつかないものをピンと掴むものだ。それが善い場合も、惡い場合も、名や格に眩惑されない。といつて、子供の鑑識眼が高いなどと歪めていふのではないから、わたくしが子供心に、放心したやうにその繪に囚はれてゐたといつても、なあんだと、笑はれてしまつては困る。だがその繪は、寫しものといふ氣品の低さは、どう思ひ出して見てもなかつたやうだ。
 ところで其繪には、柳里恭とも棋園とも落款はなかつたと思ふ。柳里恭だといふのだが寫しものであるだらう。だが、高名な人のもので、しかも、かかる大幅なので、寫しものであらうといふのだが、摸寫としてもそれをうつした人は大家で、傑作だと、もとより出入りする人の追從もあつたであらうが、わたくしの家に「郭子儀《くわくしぎ》」のおめでたい圖があるといふことは、近隣では知つてゐた。
 ある日、興宗といふ畫家が――美術院派の畫家で、有名な「落葉」の屏風を殘した今村紫紅の兄さん――いつものやうに父とお酒を飮みながら――興宗は大酒で、父とは年齡が違ふが、うまがあふので、ちよくちよく來てはお酒びたりになつてゐた――何時かはなしが「郭子儀」の幅のことになつて、もしかするとそれは楓湖《ふうこ》でせう。容齋先生の門にゐた若い時分、柳里恭の「郭子儀」をなんとかしたといふやうなことを言つたのを、たしか耳にしたがと言つてゐた。
 これは、今日になつて考へてみると、別に惡いことでもなんでもない。よいものを失つては天下の損失であるから、摸寫しておくのは頼まれなくても頼まれても惡いことではないのに、その當時の人は堅苦しくて、摸寫をさういふふうにもとらず勉強のためともとらず、贋物つくりのやうに、その者を侮辱するかのやうに聲をひくめて、遠慮して子供にもきかせたくないやうな顏を、わたくしの父などもした。楓湖《ふうこ》とは松本楓湖で、菊池容齋門下の逸足、明治年間の高名な繪かきの一人だつた。
 今村興宗は楓湖さんのお弟子だつた。紫紅もさうだつたやうだ。興宗はよくこんなことを言つてゐた。わたくしは左利きになつてしまつたが、弟は右利き、すこしでもお金があればわたしは酒を呑む、弟は鎧の引きちぎれを買つて來て眺めてゐる。古本の參考書も買つて來て讀む。どうも勉強が違ふと歎いてゐたが、大酒の勢ひにまかせ、達者に描きなぐつてしまはなければ、もつと高いところに達したと思はれる人だつた。わたくしの手許には、彼が晩年に殘した桐戸二枚の大きな牡丹花が、とても濶達に描かれてある。
 御維新ごろの世の中は、繪かきになどかまつてゐられない場合で、それから二十年か二十五年位しか經つてゐない時分であつたから、その當時の繪かきが、生活に困つたことなどが如實に來るので、興宗にしても、そんな話をすると先生たちが、先人のものを贋作したかのやうに、あやまつて聽きとられない怖れもないではないので、いや、はつきりきいたのではないが、たしかそんなこともあつたと、言つたことがあつたやうな氣もするがと、言ひ濁したやうだつた。
「郭子儀《くわくしぎ》」の圖とわたしはいつてゐるが、もつと目出たい題名がついてゐたのかどうかは忘れてしまつた。唐の郭子儀《くわくしぎ》夫妻が一人づつ中心になりその老翁夫婦をとりかこんで、一方には男子ばかり、一幅には女子ばかり集り、うから、やから、まご、うまごが、それぞれの場處に讀書し、語り合ひ、遊戲し、團欒してゐる、和氣靄々、子孫長久繁榮のやはらぎとよろこびが、全幅にあふれてゐるので、嫁入り、婿取りにはよく借りられた。ことに濱町に日本橋倶樂
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