気まま者の日記
山中貞雄
ある日・1
近頃、大衆小説を読んであまりこころよく思わないことがある。
それは、往々にしてその作者が、自作の映画化を企図して書いていると思いなされる場合があるからだ。
文壇の誰だったかが、
「文学は文学、映画は映画と言う風に別々に進んだ方がいいのじゃないか」
と言う意味のことを書いていたが、一応頷ける言い分ではあるまいか。
僕等が文芸家側から求めるものは、在来の映画物語ではなく又シナリオ化された小説でもなく、僕等映画作家に映画製作への強い意欲と興奮を与えてくれ、オリジナルな内容を持った文学作品だ。
どうかすると、文芸家仲間から、映画作家には自己内容が貧困していると言われる。
又生活内容の貧困を言われる。
然し、映画化を意図して書かれた作家の作品を読んで、それに盛られた内容と、映画作家の持つそれと、はたしてどれだけの懸隔があるかを疑わざるを得ない場合が多いのだ。その上、文芸家の作品を映画化することになった場合、
「原作のままで行ってほしい」
と言われる場合がある。それがストーリーの上で言われるのなら黙って頷きもしようが、構成や殊に甚だしいの
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