デモクラシーなる字が如何にも流行語になったからこれを説くものも流行を追うものの如く思われ、またこの字を民主主義とか民本主義とか訳するから国体に反《そむ》くような心配を起すけれども、僕はこれを簡単に平民道と訳してはドーであろうかとの問題を改めて提議したい。
武士の階級的道徳を武士道という、しかもこの名詞は昔一般に用いなかった。士道なる言葉は素行も松陰もまたその他用いていた人が衆多ある。これと同時に武士なる語も言うまでもなく古くから使用さるる語である。然《しか》るに武士道と三ツ並べた熟字は一般に用いられなかった。僕は度々この文字の出所《でどころ》を尋ねられたけれども、実は始めて用いた時分には何の先例にも拠《よ》った訳ではなかった。然るに今日は武士道といえば誰一人この字の使用を疑うものはない。元来武士道は国民一般に普遍的の道徳ではなく、少数の士の守るべき道と知られた。しかし武士の制度が廃せられて士族というのはただ戸籍上の称呼に止る今日には、かくの如き階級的道徳は踏襲すべくもない。これからはモー一層広い階級否な階級的区別なき一般民衆の守るべき道こそ国の道徳でなくてはなるまい[#「これからはモー一層広い階級否な階級的区別なき一般民衆の守るべき道こそ国の道徳でなくてはなるまい」に白丸傍点]。また国際聯盟なんか力説される世の中に[#「また国際聯盟なんか力説される世の中に」に白丸傍点]、武に重きを置く道徳は通用が甚だ狭い[#「武に重きを置く道徳は通用が甚だ狭い」に白丸傍点]。また仮りに国際聯盟が出来ないにしても武に重きを置かんとするよりは、平和を理想としかつ平和を常態とするが至当であろう。しかのみならず先に言う如く士は今日階級としてはない、昔の如く「花は桜木、人は武士」と謳《うた》った時代は過ぎ去って、武士を理想あるいは標準とする道徳もこれまた時世後《じせいおく》れであろう。それよりは民を根拠とし標準とし、これに重きを置いて政治も道徳も行う時代が今日まさに到来した、故に武[#「武」に白丸傍点]に対して平和[#「平和」に白丸傍点]、士[#「士」に白丸傍点]に対して民[#「民」に白丸傍点]と、人の考がモット広くかつ穏かになりつつあることを察すれば、今後は武士[#「武士」に白丸傍点]道よりも平民[#「平民」に白丸傍点]道を主張するこそ時を得たものと思う。
[#5字下げ]平民道は武士道
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