高尚な人間が出来たことを非常に感じ、かつ悦んだということである。これは出藍《しゅつらん》の誉《ほまれ》ある者が出来たので、即ち教育家その人よりも立派な者が作られたことの寓説である。
今日我国に於て、育英の任に当る教育家は、果して如何なる人間を造らんとしているか。予は教育の目的を五目に分けたけれども、人間を造る大体の方法としては、今いうた三種の内のいずれかを取らねばならぬ。彼らは第一の左甚五郎の如く、ただ唯々諾々《いいだくだく》として己れを造った人間に弄《もてあそ》ばれ、その人の娯楽のために動くような人間を造るのであろうか。あるいは第二の『フランケンスタイン』の如く、ただ理窟ばかりを知った、利己主義の我利我利亡者で、親爺の手にも、先生の手にも合わぬようなものを造り、かえって自分がその者より恨まれる如き人間を養成するのであろうか。はたまた第三のファウストの如く、自分よりも一層優れて、かつ高尚なる人物を造り、世人よりも尊敬を払われ、またこれを造った人自身が敬服するような人間を造るのであろうか。この三者中いずれを選ぶべきかは、敢て討究を要すまい。しかしてこれらの点に深く思慮を錬ったならば、教
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