あるいは何々教師の免状を取れば、これくらいの月給に有り付くというので、先ず算盤《そろばん》をせせくって、計算した上で教育する。これは職業を求むるためなのである。否職業を求むるというよりも、位地を求むるためなのである。
これに類して独逸の教育法も、職業教育とか実業教育とかを主とするのである。独逸語のヴィルトシャフトリッヘ、アインハイト(Wirtschaftliche Einheit)、英語のエコノミック、ユニット(Economic Unit)、即ち「経済上の単位」を能く有効にしようというのが目的である。即ち一国一市をして、なるたけ生産的に発達せしむるには、どうしたら宜《よ》いか、如何にせば最も国家経済のためになるかと、経済から割出した議論を立てて来ると、いわゆる社会経済とか国家経済とかいって、国の生産を興さねばならぬということになる。殖産を盛んにしたならば、即ちその国その市の発達が一番に能く出来る、それがためには、先ず経済的の単位として子弟の教育をするに帰着する。ちょっと仏蘭西に似ているようではあるけれども、独逸のは子弟を職業に進めるのであり、仏蘭西のはその実位地を求めさすためである。教師になりたい、役人になりたいと、位地をチャンと狙ってやっている。かようかようの位地を得たい、それにはこれだけの学問が要《い》る。即ちこれだけの準備をするために何程の金を要するといって、チャンと算盤を弾いてやるから、これは仕事を求むるのではない、位地を求むるのである。能く考えて見ると、これは独り仏蘭西ばかりでない、世界各国とも、皆そういう傾向になっているであろうが、就中《なかんずく》仏蘭西が最も著しいのである。
これを日本の例に取ると、少しく政治論のようだが、例えば農学をやる、何故農学をやるかというと、おれは日本の農業を改良したいからだと言うであろう。されど日本の農業を改良するに就いては、種々の方法があるので、尽《ことごと》く自分一人でやらなくても宜《よ》い、それは到底出来ることでない。各個分業で農業の方法を漸次改良すれば宜いのである。けれども一つ間違うと日本の農業を改良するには、どうしても農商務大臣にでもならねばならぬ、そういう地位に達しなければ仕事が出来ないように思う人もある。然るに明治十四年に農商務省が出来てより今日に至るまで、農商務大臣が幾人変っているか知れぬ。そのお方々が日
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