ても宜い。
學問が一の裝飾となると、例へば同じ議論をしても、一寸昔の歌を入れて見たり、或は古人の言行を擧げて見たりすると、議論其者が別にどうなるものでは無くとも、一寸裝飾が附いて、耳で聞き、目で見て甚だ面白くなるのである。其の裝飾が無くして、初から要點ばかり云つては心に入り樣が惡い。世間の人が朝出會つて『お早う』と云ふのも、一種の飾のやうなものだ。朝早いときには早いのであるから、別に『お早う』と云ふ必要が無い、默つて居れば宜からうに、さうではない。『お早う』と云ふ一言で以つて双方の間がズツト和ぐ。今まで何だか變な面《つら》だと思つた人の顏が、『お早う』を言つてからは、急に何となく打解けて、莞爾かなやうに異つて來る、即ち其の人の顏に飾が附いたやうになる。さうするとお互ひの交際が誠に滑かに行くのである。
露國の聖彼得堡に一人の有名な學者がある。其人は波斯教の經典、『ゼンダ、アヴエスタ』に通じ、波斯古代の文學に精しく、而して年齡は八十ばかりになつて居るさうだ。此人が聖彼得堡の大學では一番に俸給が高い、ところが波斯の古代文學の事だから研究希望者が無い。それで先生は教場に出て講義をするけれど
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