には菊花の栽培法に就いて、如何なる秘密でも知つて居ると云ふ者がある。或は龜の卵を研究するに三十年も掛つた人がある。さう云ふ人は、人間の智惠の及ぶ限り龜の卵の事を知つて居るであらう。其他文法に於ける一の語尾の變化に就いて二十餘年間も研究した人がある。さうすると其等の事柄に就いては餘程精通して居るが、それ以外のことは知らぬ。是は宇宙の眞理の攻究であるから、第四に述べた所の目的に適つて居る。されど人間としてはそれだけで濟むまい。人間は菊の花や、龜の卵を研究するだけの器械なら宜いけれども、决してさうではない。人間には智識あり、愛情あり、其他何から何まで具備して居るを見れば、必ずそれだけでは人生を完うしたと云ふことが出來ぬ。して見れば專門の事は無論充分に研究しなければならぬが、それと同時に、一般の事物にも多少通曉しなければ人生の眞味を解し得ない。今日の急務は餘り專門に傾き過ぎる傾向を幾らか逆戻しをして、何事でも一通りは知つて居るやうにしなければならぬ。即ち菊の花のことに就いて云へば、おれは菊花栽培に最も精通して居る、それと同時に一寸大工の手斧ぐらゐは使へる、一寸左官の壁くらゐは塗れる、一寸百姓の芋くらゐは掘れる。政治問題が起れば、一寸政治談も出來る、一寸歌も讀める、笛も吹ける、何でもやれると云ふ人間でなければならぬ。之は隨分難かしい注文で、何でも悉くやれる譯にも行くまいが、成るべくそれに近付きたい。所謂何事に就いても何か知ることが必要である。之は教育の最大目的であつて、斯くてこそ圓滿なる教育の事業が出來るのである。茲に至つて人格も亦た初て備はつて來るのであらうと思ふ。
然るに今日では妙に窮窟なることになつて居て、世の中に一種偏窟な人があれば、『あれは一寸學者風だ』と云ふが、實は人を馬鹿にした話である。又た自分も一種の偏窟な人間であるのを、『おれは學者風だ』と喜んで居る人もあるが、僕の理想とする所はさうでない。『あれは一寸學者見たやうな、百姓見たやうな、役人見たやうな、辯護士見たやうな、又た商人のやうな所もある』と云ふ、何だか譯の分らぬ奴が、僕の理想とする人間だ。然るにそれを形の上に現はして、縞の前垂を掛けて居るから商人だ。穢い眼鏡を鼻の先きに掛け、髭も剃らず、頭髮を蓬々として居れば學者だと云ひ、其上傲然として構へて居れば、愈々以てエライ學者だと云ふやうに、圓滿なる發達の出來なかつた者を以て學者風と云ふのは、抑も間違つた話だと思ふ。盖し學問の最大目的は人間を圓滿に發達せしむることである。
今日は學問の弊として、往々社會に孤立する人間を造り出す。彼のギツヂングスの社會學に『ソシアス』(Socius)と云ふ語があるが、之は『社會に立つて、社會に居る人』の意である。實に其通りで、苟も人間が此世に在る以上は、决して孤立して居られるものでない。人[#「人」に白丸傍点]と云ふ字を見ても、或る説文學者の説には、倒れかける棒が二本相互に支ふるの姿勢で、双方相持になつて居るのが人[#「人」に白丸傍点]だと云ふことだ。我々は社交的の動物であつて、决して社會以外に棲息の出來ないものである。だから吾人々類が圓滿に社會に立つて行けるやうにするのが教育の目的でなければならぬ。されど輕卒にあちらへ行つてはお追從を云ひ、こちらへ來ては體裁能くやつてゐる小才子を以て、教育の目的を遂げた者とは云はぬ。先づ己れの修むべき所のものは充分に之を修め、さうして誰とでも相應に談話が出來て、圓滿に人々と交際をして行けることが教育、即ち學問の最大目的だと思ふ。
我々は决して孤立の人間になつてはならぬ。飽くまでも此の社會の活ける一部分とならねばならぬ。然るに今までは動もすれば學問に偏してしまひ、學者と云ふと、何だか世の中を去り、山の中にでも隱れて、仙人のやうになつてしまふのであるが、之は大なる間違である。蓋し相持ちにして持ちつ持たれつするが人間最上の天職である。彼の戰國の時、楚の名士屈原が讒せられて放たるゝや、『擧世皆濁れり、我獨り清めり』と歎息し、江の濱にいたりて懷沙の賦を作り、石を抱いて汨羅に投ぜんとした。彼が蒼い顏をして澤畔に行吟してゐると、其所へやつて來た漁父が、『滄浪之水清兮、可[#三]以濯[#二]吾纓[#一]。滄浪之水濁兮、可[#三]以濯[#二]我足[#一]』と歌つて諷刺した。此歌の意味は、『お前が厭世家になつて河に飛込み、可惜一命を捨つるのは馬鹿なことだ。聖人と云ふものは、世と共に歩調を進めて行かねばならぬ、今死ぬる馬鹿があるか』と云ふ意味であらう。して見ると屈原よりも、漁父の方に達見がある。又た彼の伯夷叔齊は、天下が周の世と成るや、首陽山に隱れ、蕨を採つて食つた。其の蕨は實に美味しかつたらうが、我輩の伯夷叔齊に望みたいことは、蕨が美味しかつたなら、何故其蕨を八百屋へで
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