いて居る。即ち智識を得るのは成程螢雪の功だと思ふやうになる筈だ。
 若し學校に於ける教育法の改良が急に出來ぬならば、切めて子供が家庭に居る間でも、智識が面白く其頭腦に注入される樣にしたい。父母が面白をかしく不知不識、子供に智識を與へるやうにしたい。僕は子供の時に頭髮を結うて貰つた、八歳の頃迄は髮を結つたのであるが、時々他人から髮を梳いて貰ふと實に痛くて堪らない。其痛さ加※[#「冫+咸」、232−下−8]は今でも忘れられ無い。あれが今日の教授法である。けれどもお母さんが梳くと痛く無い、どんなに髮が縺れてゐても痛くも何とも無かつた。家庭の教育とは斯う云ふものでは無からうかと思ふ。同じ事でも母親は柔かくやるから痛くない、丸でお乳でも哺んで居る心地がした。ところが母親で無い人、即ち今日の先生がやると、無暗に酷くグウーツとやる。……さう云ふ譯で學問は辛いものだと云ふ觀念があるから、學校を卒業すればもう學問は御免だ、眞平御免を蒙りたいと云ふ考が起る。ましてや道樂の爲に學問をするなどゝ云ふ考は毛頭起る理由が無い。僕の望む事は家庭に於て、女子供に雜誌でも見せる折には、譬へば『ラヂユーム』と云ふものは、佛蘭西の斯う云ふ人が發明したもので、之は著しい放射性の元素であると云ふことでも書いてあつたなら、それを平易に説いて聞かせ、尚ほ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫でも有れば見せて皆で樂しむやうにしたい。其間に子供は學問の趣味を味ふのであるが、今日の所では其の教へ方を無理に難かしくして居る。即ち小學校などでは儀式的に教育するから、子供があちらを向いて居るのを、こちらへ向かせる眞の教育の趣旨に適ふまいと思ふ。前に云ふ通り育[#「育」に丸傍点]の字は肉[#「肉」に白丸傍点]の字の上に、子供の子[#「子」に白丸傍点]が轉倒して居るのであるから、其の子供の向き方を變更させるのには大いに手加※[#「冫+咸」、232−下−25]がいる。其の手加※[#「冫+咸」、232−下−26]を過まれば教育の方が轉倒してしまふ。願くは教育は面白いものであると云ふ觀念を持たせ、道樂に學問をする人の増加するやうにありたいものだ。
 第三[#「第三」に白丸傍点]の目的は、道樂と稍關聯して居る、稍類似して居ると思ふが、少し違ふので即ち裝飾の爲に學問をすることで、之も則を越えない程度で
前へ 次へ
全22ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
新渡戸 稲造 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング