今日では、學問は中々樂みどころで無い、道樂どころではない、餘程うるさい、頗る苦しいものゝやうに思はれて居る。それと云ふのは、昔は雪の光で書物を讀んだとか、螢を集めて手習をしたとか、所謂學問は螢雪の功を積まねばならぬ、餘程辛いものであると云ふ教になつてゐるからである。併し僕とても、學問は骨を折らずに出來るものだとは云はない。たゞ面白半分にやつたら、其内に飛び上つて行くものだとは云はない。學問や研究は中々頭腦を費さねばならぬ、眠い時にも睡らずに勵まねばならぬ。けれどそれと同時に學問は面白い、道樂のやうなものであると云ふ觀念を一般の人に與へたい。家庭に於いても、アハヽヽと笑う間に、子弟をして學問の趣味を覺らせることが必要である。
 今日小學では何う云ふ風に教育して居るかと云ふと、大體小學校の教授法が面白くない。子供は低い腰掛をズラリと並べ、其所に腰をかけて居る。先生は高い所に立つて居る。子供が腰掛の上に立つて、先生が下に坐つて居ても、まだ子供の方が低いのに、先生が高い所に立つのだから、先生ばかり高く見える。即ち學問は高臺より命令的に天降る、生徒は威壓されて學問を受ける。それもマア宜いが、さうしてたゞ窮屈に儀式的に教へて居るので、面白をかしく智識を與へることが無い。一體日本の子供ほど可哀相なものはあるまいかと思ふ。我國には憲法があつて、國民は自由である。或は種々の法律があつて、生命財産の安全を保つて居るけれど、教育の遣り方を見ると實に情無い。先づ子供が生れる、脊に負はれる、足を縛られる、血の循環が惡くなる、或は首が曲る。太陽の光線が直接に頭を射て腦充血が起る、又た其光線が眼の中に入つて眼を痛める。或は乳を無暗に哺ませ過ぎて胃腸病を多くする。日本に眼病や胃腸病の多いのは幼兒の養育法を過つて居るからである。又た足を縛るから足の發育が出來ないで、皆短い足になつてしまふ。生れたときからさう云ふ養育法をやり、さうして小學校へ入學してからでも、何か面白いことを云つて笑ふ間に學問をさせるとか、或は筋肉を動かして、身體の發達を促がせば宜いが、さう云ふことはない。尤も近來は小學校の教授法も大分に改良が出來たけれど、兎に角子供の心中には、學問は苦しいものだ、辛いものだと云ふ觀念が注入されて居る。其筆法で大學まで來るが、其間子供が何か書くときでも、面白いと思つて書きはしない、いやだ/\と思つて書
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