んだ」
 かう、妙に沈んだ声で云ふのだつた。これは少し何時《いつ》もと様子が違つてゐると思つて、私はかすかな不安を覚えながら、節々の痛む体を無理に起して寝床から放れた。――帽子も被《かぶ》つたまま、オーバコートも着たままの、役所へ行きがけらしい兄の姿をもう一度よく視守つて、何か云はうとしてゐると、
「美代が悪いんだ」と、兄は怒つてでもゐるやうな恐《こは》い顔をして、押《お》つ被《かぶ》せるやうな強い口調で云つた。
「姉さんが?――姉さんには昨日僕あつたんだけれども……」
「昨夜一と晩で急にヒドく悪くなつたんだ。肺炎だと云ふんだが、妊娠中のことでもあるし、もう駄目らしい。今日午前中持つかどうか……」
 キツパリと、あまり強い調子で云ふので一寸の間私は、兄の言葉に反問することが出来ずにゐた。さうして、心の中で兄を憎らしいものに思つてゐた。
「そんなことはありはしない。そんなことつてありはしない……」
 暫くして、私は兄を責めでもするやうに、ワクワクしながら呟いた。けれども、興奮して、黙つて、ぼんやり突つ立つてゐる兄の顔を視守つてゐるうちに、私は、自分の言葉に少しも権威のないことを思はない訳に行かなくなつた。兄の言葉を信じない訳に行かなくなつた。さうして、不意に胸が塞《ふさ》がつてきた。――四五日前から、風邪《かぜ》をひいて寝てゐると云ふ姉には、昨日、原町の家へお金を貰《もら》ひに行つた時に、母から注意されたので、かへりに私は木村によつて姉を見舞つたのだ。その時、別に重態と云ふやうな様子は少しもありはしなかつた。それに……。
「医者が、もう駄目だと云ふの」
 私は出来るだけ、気持を冷静に保つてゐようと努めながら訊いた。
「あゝ、さう云ふんだ」と兄は力のない声で、「俺《おれ》は、これから熱海《あたみ》のお父さんのところへと花子のところへと電報を打ちに行くんだ。そして、それから、もう一度医者に酸素吸入を頼んでくるつもりでゐるが、お前にも、頼みがあるんだ」
 私は返事をしなかつた。着物を着かへたら直ぐ、木村へ馳《か》けつけてみようと思つてゐたのだ。
「――広小路へ行つてね、イボタの虫つてものを買つて来て貰ひたいんだ」
「イボタの虫つて……」
「俺もよく知らないんだがね」と、兄は云ひ憎さうな調子で、「売薬だがね、好く利《き》く薬なんださうだ。母《か》あさんが是非買つて来いと云ふん
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