まも》つてゐた。兄と一緒にさへ居られれば力強い気がされてゐたのだつた。
「駄目だよ。歩いて行つたんぢやおそくなつちまふだらう……」
兄はかう云つて、私の体に喰つついて来たが、ふと、私の外套《ぐわいたう》の前をキチンと合せてくれたり、一つもかかつてゐないボタンを、丹念に嵌《は》めてくれたりした。
「直ぐ電車で行つておいで……」
私は悲しくなつた。イボタの虫なんて買ひに行くのはイヤだと駄々をこねようと思つたが、へんに唇が歪《ゆが》んで来るばかりで、口を利《き》くことが出来なかつた。黙つて兄から顔を視守られてゐると、どう反抗しようもなくなつて来て、丁度先の電車が動き出さうとした機勢《はずみ》に、踵《くびす》をめぐらして、それに飛び乗つて了つたのである。
私は車掌台にやつと立つて、冷たい真鍮《しんちゆう》の棒につかまつてゐた。車掌や車中の乗客からジロジロ顔を視守られてゐるやうな、侮蔑《ぶべつ》されてゐるやうな、腹立たしい気持でゐた。それでも、何時《いつ》ものやうに私は、心の中で彼等を蔑視《さげすみ》かへす気力がなかつた。少し強い口調で何か言葉をかけられでもしたら、誰にでもベコベコ頭を下げて了ひさうなイヂケタ気持になつてゐるのだ。疲れてヘナヘナになつてゐる体を靠《もた》せかけるやうにして、窓のガラスに顔をぴつたりよせた。電車の震動につれて、歯と歯とがガクガク噛《か》み合せられ、寒いやうな緊張が、体全体に漲《みなぎ》つて来るのが感じられてゐたが、不意にもう姉は死んで了つてゐると云ふ風な気がして、目の中が熱くなつた。ぽつりと涙が落ちた。鼻筋をつたふ涙の、かゆいやうな感じを覚えたが、私は気恥かしくなつてそつぽを向いた。
――白い毛糸の、ボヤボヤした温かい襟巻《えりまき》に包まれながら、姉に抱かれながら、この、本郷の通りを俥《くるま》に乗つて走つてゐたことがある。小さい弟を抱きかばつてゐる、若い娘らしい姉の得意と喜びとをちやんと私は知つてゐた。知つてゐながら狡《ずる》い小さな私は、甘えて無邪気に眠つてゐるやうなふりをしてゐたのだ。姉の親友の、学習院だつたか附属だつたかの小学校へ通つてゐる、自分と同じ年位な弟さんを思ひ浮べて、明日から、姉のために、その品の好いおとなしい弟さんに出来るだけ自分を似せようと思ひながら……。十五六年も前の、そんな記憶がちらと頭に浮んで来た。――姉に、
前へ
次へ
全13ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中戸川 吉二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング