た。それではいかにも引合わぬという疑が起ろうが、彼らの稼ぎには武家以外に平民がある。平民の用は、問屋から武家の用を命ぜられるそのいとまに遣るということになっており、それは『相対雇《あいたいやと》い』といって、問屋を仲に立てないでいるので、賃も十分に取り、なお酒手もねだった。それで武家の方と差引して生活したのである。それでは平民ばかりを客にしたら大変に宜いはずであるが、それは許されていなかったのである。
平民の旅行となると雲助のために多くの費用がかかった。就中《なかんずく》役者などの芸人と認めると一層高い賃を取ったから、芸人等は大抵商人に扮して旅行した。しかしそれが露われるとまた恐ろしく取ったもので、場合によれば手込にもした。
武家が大勢落合って雲助や馬子の不足する時は、問屋から別に『助郷《すけごう》』というものを出した。これはその地その地の百姓が役として勤めたもので、馬を持っていれば馬子の代りをせねばならなかった。この助郷は雲助などに比べると相当の着物を着て身形《みなり》もよく一層温順であるが、それだけ駕籠の舁き方も拙く、足ものろいので、我々はやはり助郷よりも雲助の方を便とした。
私どもは一定の立場《たてば》々々で人足や、馬のつぎかえをしつつ進み、その夜は戸塚の宿に泊った。
私は旅することを初めは面白く思ったが、山の中野の中を連れと離れて舁がれてゆく時は怖しく淋しく、父などと一所になればやっと安心し、立場で茶受けに名物の団子など食べる時には嬉しく、問屋で人足をかえる際には、諸藩の武家をはじめ往来の旅客が集って極めて雑沓するので、はぐれはしまいかと心配した。
さて戸塚へ泊ると、宿屋の食事は本膳で汁や平がつくので、常に質素な食事ばかりしていたから、大変な御馳走だと思った。そして夕飯朝飯は毎日どこでもこれであるので嬉しかったが慣れぬうちは知らぬ家で寝るという事が不安で、父や祖母と一間に寝たのであるが、戸塚では殆ど眠られなかった。それも慣れては我が家の如く安眠するようになった。戸塚の駅の辺りで屋根の上に一八《いちはつ》の花が咲《さい》ているのを珍しく眺めた。
その頃では私の父位の身分の一行であっても、宿を取ることになればその宿は一行で借切ったもので『相宿は許さぬ』と告げ、宿屋もそれを承知したものである。武家の宿と商人の宿とは大抵別になっていた。かくまで威張った武家が可笑《おか》しいことは、宿をとる時必ず旅籠《はたご》銭を家来をして値切らせたものである。旅籠銭は一人分が百五十文か二百文あたりであったと覚えている。今の銭でいえば一銭五厘から二銭までの所である。それで本膳の食事を供し、風呂も湧かしたので、今の人の耳には嘘のように聞えるであろう。茶菓子は大したものは出さず煎餅ぐらいであった。今もそうであるが朝は梅干に砂糖をかけて出した。
宿屋全体を占領するのであるからユックリしたもので、上分《かみぶん》は二間ぐらいを領し、家来は遥か隔った部屋に居た。日々の昼食は宿屋にいい付けて弁当を作らせ、用意の器に入れさせ、それを昼頃にどこかの駅か立場に着いた時に、駕籠で食った。弁当など持たないでも、食事する所はどこにでもあったが、旅費も乏しかったので節倹したのである。
侍が単身でもまた一家を連れてでも、旅する際の費用は、決して官から賜らなかった。本来知行を貰っているという事は何らかの場合に公務を弁ずるという請負として貰っているので、それの余力で家族を養うという事になっていたので、藩のために旅行するも公務の一部で、旅費は家禄を以て弁ぜねばならなかったのである。大名の参勤交代でもその通りで皆大名の自弁であった。大名はその上に、時々城やその他の土木工事を命ぜられ、これらも軍役に準じてやはり自弁でせねばならなかった。
藩の侍の如き、表向きは余力で家族を養うということになっていても、実際においては家禄の全部を使ってやっと家族を養っていたので、旅などする時には家禄の前借をしたものである。また別に侍中の共有の貯蓄があって、それも貰うことになっていた。そういう次第であるから手を詰めた旅行をせねばならぬのである。
ところがこの頃は東海道を初め、どの道筋でも『川止め』という厄介な事があった。雨が降続いて川が増水すると、危ないというので渡しを止めるのである。東海道の川々、大抵は舟渡しで、大井川と酒匂川《さかわがわ》だけは特別に台輿または肩クマで渡した。台輿は駕籠に乗ったままで駕籠ぐるみに台にのせて渡すので、肩クマというのはけだし肩車の訛りで一人を肩に乗せて渡すことである。大井川の如きは殊に川止めになりやすかった。川止は実に旅客の迷惑であったが、それに反してその川の両岸の土地の者には大いなる幸福であった。それは旅客が泊って金を落すからである。大名となると泊る際には必ず一駅を一行で占有したものであるから、参勤交代が同時である大名と大名とが相次いで来る時、川止となると、前の方の大名が川端の駅に泊ると、次の大名はその次の駅で泊ることにせねばならぬ。川止のためにこの大名達が土地へ落す金は非常なものであった。
それで少し雨が多いとなると、危険というほどでもないのに、もう舟は出せないといって止めてしまう。これに対してはいかに大名といえども渡る事は出来なかった。またその土地の舟以外の舟で渡るという事は幕府の禁ずる所であった。大井川の如きも人足が渡してくれねばといって、舟を浮べることは勿論禁ぜられていた。なんでも大井川などは早く増水するように特に渡し場の所だけ深く掘ってあるとかいう話も聞いていた。
私どもの一行も川止にあわぬようあわぬようと念じつつ行ったが、大井川は無事に越した。こういう川越しの際の人足もその役筋から雇ってくれるので安かった。私も台輿で渡ったが目がまうように覚えた。或る日途中で父が力を落した風で投げ首で休んでいた。私が怪《あやし》んで聞くと、このさきの砂川(遠州)が止まったといった、それで日はまだ高いのに掛川《かけがわ》に泊った。しかし幸にして翌日川が開けた。砂川は小さな川であるが忽ち増水する川であった。私は駕籠の中から、その川のあたりの並木に藁や芥のかかっているのを見て、前日の増水の有様を思うた。その次には三河の大平川が止まった。これも幸にして一泊で川が開いた。止まった川が開いたというと、旅客が先きを争うて渡るので広い川原も怖しいほど雑沓した。大井川の止まった時肥後藩の侍がこの位の水で止まるはずは無い、どうしても渡さぬなら泳いで渡ると息巻いたが、制する者があって、思い止まったということを聞いた。こういう憤慨はよく方々で聞かれたのである。
川止の外に面倒なのは関所のあらためである。東海道では箱根と新居《あらい》(遠州)に関所があった。関所は幕府で厳重に守らせたものであるが、既に勤仕している武士となれば、手数はかからぬのであるが、女子供を連れると面倒であった。それは幕府の政略として、諸大名の妻子は必ず江戸に住まわせ、藩地へ帰すことを許さなかったので、もしそれらが身をやつして帰国することが無いかという用心からであったらしい。私ども一行は藩より通行の手形を貰って来たが女は関所で頭髪をかき分けて検査される。手形にはこの女は髪が多いとか、少ないとか、白髪があるとか、頭に疵があるとか書いてあるので、それと引合わせて通したものである。
子供となると、五歳以上の男児で上下着した者は一人前の武士と見なされていたが、それ以下の男児は、男たる事を証明するために、関の役人の前で前をまくって陰茎を示したものである。女の子は振袖を着けて、それだけで済んだ。道中には所々に藩の用達というものがあって、関所にかかる時には、まずその前の駅の藩の用達を呼んで、関所を通るについて万事その人の手でしてもらうことであった。手形も用達の手から関の役人に差出してもらう。同時に賄賂も差出してもらう。この賄賂は多きを要しないで一定していた。もしこれを出さないと何かいい草をつけて川止め以上の日数を浪費させられることがある。
関所へかかる前には行装も調えねばならぬ。それで箱根では、そこに近い間の宿で休んで、女は髪をあらためられる支度をして髷をほどき髪を洗っておく、父は旅中の常服としては野服といって、今も芝居で見られる鷹狩装束のようななりをしていたが、関所を通る時には野袴を穿き紋附羽織を着、家来も新しいカンバンに改め木刀をささせ、槍と草履とを持たせ、具足櫃も常は後《あ》とになり先きになって持たせたが、この際は父の進む前に厳めしく舁がせる。常には継母と弟が乗る切棒駕籠も、この際は父の乗物として、父のあとへ附けた。そういう行列をして関を通るのであった。
父は関所の役人へ何ら会釈もせず、突袖のまま通ることが出来た。その次には私だが、私は既に十一歳だから、大小を帯び、父と同じ野袴紋附羽織に改めて通るのである。が、父のように素通りすることは出来ぬ。用達に連れられて役人の前に進むと役人が厳格に『名前は』と問う。『内藤助之進』と名乗る。『通らっしゃい』という。すると用達はもう宜しいとささやいたから、そこで通った。弟は例の前まくりをやらせられ、女連は髪をあらためられた。女のあらためはさすがに男はやらないことになっていて一人そのために婆アが雇ってあって、それがあらためた。賄賂は定まり通り納めてあるので、皆無事に通るを得、次の間の宿で休息し、再び常の行装になって、旅行を続けたのである。
町人百姓は手形を住地の役筋から貰って通ったものである。この手合の女の検査は武家の女ほど喧《やかま》しくはなかった。町人百姓が何か事故があって手形を貰わなかった時は、関所の前の宿で偽造の手形を高価で売っているのを買って、それで通ることも出来た。この事は黙許になっていた。その偽手形も買わぬ者は関所を通らずして抜道を通った。なんでも手形を持たぬ町人百姓が関所に来ると、役人は『これからどちらへ行ってどう曲ると抜道があるが、それを通る事は相成らぬぞ。』といって、暗に抜道を教えたということである。また或る人の話に、手形の無い者が通りかかると、役人が『こら』と声をかける。その時その者はクルリと向きをかえて、今《い》ま歩いて来た方角へ顔を向けて蹲《しゃが》む。『手形があるか。』と問う。『ありませぬ。』と答える。『それならば元へかえせ。』と厳しく叱りつける。すると『はい』といって向直って関門を出て、サッサと通ってしまう。こういう事も黙許されていたという。旧幕時代は諸事むつかしい法度があるとともに、またその運用に極めて寛大な所もあったのである。
しかしその抜道には、よく悪者が居て、追剥強盗などをした。それをもし訴えると関所破りをした事がわかるので、災難に遭っても黙っておく。それをよいことにして悪者が暴行をした。かの伊賀越の芝居でも、唐木政右衛門が岡崎の宿に着く際、この抜道を通ったということに作ってある。
私達の一行は次の新居の関(遠州)も越したが、ここでも手形を出すとか、検査を受けるとか名乗をするとかいう事は、箱根の通りではあったが、ここは役人の態度が、いかにも穏和であった。例えば、私が通る時老人の役人が『お名前は』と聞いた。名乗をすると、『お通りなさい』といった。箱根の『名前は』『通らっしゃい』とは大変な違いである。
この新居の関は、この地の小さな大名が、幕府からの命令で、受持っていたのである。箱根となると関東唯一の関で、幕府の功臣小田原藩大久保の受持になっていたから、自然厳重な荒々しい言葉使いをしたものである。
これらの関所の外に、馬のつぎかえをする時に荷物の貫目を検査する場所があった。それは第一が品川で、次が府中即ち今の静岡、その次が草津と覚えているが、その間にも、一つあったかも知れぬ。この検査の時も、用達に周旋をさせ、問屋の役人に賄賂をつかうと、少々貫目が多くても通してくれた。もし賄賂をつかわないと、貫目が少くても多いといわれることがある。役人の手儘に目方をかけるのであるから、重いも軽いも手加減次第でどうでもなった。その賄賂
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