福田|把栗《はりつ》氏も俳句を始めたが、これは漢詩の方が更に得意であった。
 私がそもそも最初に雑誌の選者となったのは、文庫であって、これには選句の中へ簡単なる評語を挟んだので、世間では頗る受けたが、余りに口合的になるので、子規氏は機嫌がよくなかった。また太陽に同人の俳句を出す事も、その頃からで、それは編輯者の泉鏡花氏がよく私に俳句を見せた関係からである。その後|岸上質軒《きしがみしっけん》氏等の人々が替わってこれが編輯を担任する事になってもやはり私の俳句欄はそのままにして終に今日までも継続している。なお万朝報も一週間一回の俳句欄の選者を托せらるる事になって、いわゆる旧派の老鼠堂|永機《えいき》氏、この人が亡ってからは其角堂機一《きかくどうきいち》氏と共に引受けて、これも今に継続している。その他東京の新聞雑誌は段々と多く関係することになって、多少の出入変遷もあるが、今も新聞では万朝の外、読売新聞と中外商業新報、雑誌では大陽の外、二十種余に関係している。尤も文庫は早き以前に廃刊してしまったが、この雑誌は小国民の改題で、その頃はかようなものに載せる文学的のものは、俳句の外は凡て大家と認めらるる者に限る例であったのを、文庫のみは主としてまだ名を知られない若手の作でも、よい者は載せることにしたので、新進の青年は多くこの雑誌の下に集って、それが発達して今日の大家となっているものも少くないようだ。この事はこの文庫発行者の山県悌三郎《やまがたていざぶろう》氏の功といってよい。
 二十七、八年に亘った日清戦争の時、五百木飄亭氏は兼て医者の開業免許を取っていたので、看護卒となって服役していたが、その以前より、日本新聞の記者を兼ねていたので、それに報ずる戦地の状況が、他の報告よりも特色を帯びていたので多くの読者には歓迎されていた。そんなことからも、また自分に期する所もあったので、子規氏は病身であるにかかわらず、戦地へ行って見たくなって、それを陸羯南氏にも話したが、羯南氏は子規氏の病体を更に悪くする事を気遣って容易に許さなかった。が、再三熱心に需《もと》めるので、終に日本新聞社から特に派遣する事になった。が、金州方面に達した頃もう戦争も終りを告げていたので、この上はせめてもとまだ充分に服従せないで戦争をしている台湾の方面へ行こうと思って、下の関まで帰った時、再び大いに喀血して、とても台湾行きは出来なくなって、それから神戸の病院へ入ったが、一時は危篤という報もあったので、既に東京に来ていたその母刀自や、虚子氏は看病に赴いた。幸にその時は快方に向って、それから郷里の松山で保養する事になった。そうしてその後小康を得て東京へ帰ったが、その頃から段々と行歩が不自由になって、多くは床に就いていた。尤も時々は車で外出する事もあったので、虚子氏の住んでいた猿楽町の宅へも稀には来た。或日の事子規氏が来た、闇汁会を開くからといって来たので、私も行ったが、闇汁とは、出席者が各々或る食物を買って来て、互に知らさずと厨の大鍋に投げ込む、それが煮え立った頃席上へ持ち出して、銘々の椀に入れて食う時、色々の物が出て来る、肉とか野菜とかの外、餅菓子やパンなども浮み出て来るので、いよいよ興を催おして思わず、飽食するにも及んだ。これが他の同人仲間にも伝わって、その頃はよく諸方で闇汁会を開いたものである。附ていうが、この闇汁は私の旧藩で昔から若いものが時々したもので、それは出席者が闇の夜に網を携えて野外の小川へ投じて、その網にかかったものを何か判らず取帰って鍋の中へうち込む、それから喰おうとすると、下駄の抜け歯が出て来る、蛙の死んだのが出て来る、その他さまざまの汚いものが出て来ても、それを構わず喰うのを勇気があると称して、互に興じ合ったものである。そんな野蛮な事も出来ないがやはりその名を取って、それに似た事をしたのが、即ち我々の闇汁会であった。
 我々の俳句会は久しく子規氏の宅で開いていたが、氏の病もよくならず、余りに大勢の集るも如何という所から、終に虚子氏の猿楽町の宅へ移して、ここで開くことになった。またホトトギスの編輯や発行は最初より、虚子氏の宅であったが誰れか編輯等のよい手助けはないかと求むる際、子規氏が地方からの出吟者で傑出した三人を見出した。それは東京の第一高等学校(この頃中の字を取った)数学教師の数藤五城《すどうごじょう》氏、法官で居て最初東京に居て台湾千葉と転任した、渡辺|香墨《こうぼく》氏と、今一人は大阪の松瀬青々《まつせせいせい》氏であった。この青々氏は別に大した業務もなかったというので、それを呼び上せて、右のホトトギスの編輯を手伝わせる事になった。その後青々氏は他より一層発達して、殊に達作で、郭公一題二百句などという多作をして我々を驚かせたが余り長く東京には留らないで、帰阪して後大阪朝日新聞社に入って、今も同社の俳句欄を担任している。この外大阪では水落露石氏、青木|月斗《げっと》氏なども名を出した。尤も露石氏は先年亡って、月斗氏は今も同人雑誌の主筆並に経営者となっている。また石井|露月《ろげつ》氏は、元々医者になる目的で、その学費を弁ずるために日本新聞社に入っていたのであるから、その後開業免許を得ると直に郷里の秋田県へ帰って、女米木《めめき》の山中で医業を開いて、今日に至っているがその後一度も東京へ出て来ないで、地方の百姓を相手に閑居して、この患者を療養するをこの上もない楽みとしている、けれども絶えず読むものは読んでいると見えて、東京その他の俳事の状況や変遷はよく知っていて、その句作も旧によって健実である。またこの人に次いで秋田地方では、島田五工氏なども、子規氏の俳風に同化して、俳星という雑誌まで出していたが、この頃は心機一転したものか、それを出す事もやめてしまった。
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   十九

 今の如く青々氏や露月氏の事をいったついでだから、なお遡って、子規氏と共に俳句を作り始めた古い人々のこともいって見よう。その頃最も才気があって、現代の文芸主義にも早くより通暁していた者では藤野古白氏がある。氏は子規氏の従弟で、早稲田の学校では後に有名になった島村抱月氏と同級であったのだが、夙《はや》くより個性とか自我とかいうような意味で文芸を扱うことに気が付いて、それを俳句にも応用した様子が見える。そうしてその頃或る家の女子を思い初めて、それが他に嫁したという失恋から、一時狂的の行為もあったが、再び心を静めて専門に文学を研究して坪内逍遥氏などにも愛せられていたのであるが、余りに抱負が高尚で卒業の論文を書いても書いても意に満たないで、卒業はさせられたものの、また再びふらふらとした気分になった。その時出来たのが「築き島の由来」とかいう劇の脚本で、青年松王が自ら求めて人柱になるという、それを自分にも実行したのが彼のピストルの自殺である。氏の湯島の寓所は私の宅と接近していたから、知らせと共に駈け付けて大学病院へ入れた後、父の漸氏が出京するまでは私は昼夜附添っていた。この看護には碧梧桐氏や虚子氏も加わったのである。しかし二発の弾の一つが脳の中枢を破ったのであるからあえなく落命した。子規氏は病床に居て、見舞う事は出来なかったが、従弟でもあるから哀悼を表する傍ら、その作品を集めたものが即ち古白遺稿である。
 それから新海非風氏だが、これは家庭の境遇から余り学問はしていなかったが、天才的で俳句を作る才は時々子規氏をも驚ろかした。いわゆるせり吟にも多く作って多くの佳句を見せていた。そうしてこの人も古白氏と共に軟派文士肌で別に資力もない癖に吉原通いをして或る妓と馴染を重ねたが、間もなくその妓が年明けとなって、身を任そうと思う男が二人あったそうだが、終に非風氏の方へ籤《くじ》が落ちて、その後は同棲することになった。この妓の家元は江州人で、普通なら年明きの娘も資力のある婿を持たせたいというのだが、最初余義なき金策に、娘を苦界に沈めたことを哀れむと共に、娘の好む婿ならばといって、その資力の有無を問うような貪欲心はなかった。それで、非風氏もなるべく努力して一家を立てて、函館の新聞記者なども勤めることになったが、早くより肺病に罹っていたので、後には細君の実家近くの京都辺りへも流寓して、終に病死した。そうして、あべこべに舅の家から多少の救助を受けた位のことであったろうと思う。私どもは非風氏が一時東京の小石川に家を持っていた頃、子規氏や古白氏などとそこでも句会を開いた事があったが、その後地を隔つると共に非風氏とはただ消息ばかりを知るのみになってしまった。
 五百木飄亭氏は最初大阪で医者の試験に及第したが、未だ丁年に満たないので、医者と称することも出来ず、それから上京して私の寄宿舎へ入ったのだが、年齢よりは老成していたために、推薦せられて舎監にもなった。そうして読書の才もあって、俳句がうまかったのみならず随分漢籍をも読んで、私が未だ読まぬ書を読んでいたのに驚かされた事もあった。その後日本新聞社へ子規氏の後から入って、筆を執っているうち、徴兵の乙種であったので日清戦争に従軍した。尤も医学の素養があるため看護卒となって、戦地の報告を日本新聞へ掲載して異彩を放ったことは前にもいった通りである。凱旋後も長くこの新聞に従事していて、その後は医界時報を田中義之氏と共に経営していたが、終にそれを田中氏のみに任せ今ではいわゆる高等浪人となって朝鮮合併や支那事件などにも野にあって努力していることは誰も知る通りである。
 また勝田明庵氏は他に較べては余りに俳句に熱心でなかったが、それだけ政治や経済の方面には早くより研究をして、寄宿生中でも他の者は暑中休暇などには郷里へ帰省するのだが、氏に限っては見学のため知らぬ地方を巡回して、其所々々の殖産やその他社会的の事を調べて、帰舎すると茶話会席上でそれらを報告するのを得意としていた。そんな風故法科大学を卒業すると共に大蔵省へ出身して、函館の税関長となりまた本省の局長から、次官に進んで終に大臣となった。しかし今でも時々は俳句も作っているようだ。
 以上は寄宿舎で俳句を作っていた同郷人の主なる者だが、その他では、後に自分で婦人科病院を起て、また俳事に関する蔵書に富んでいた医学士の大野洒竹氏、新聞上で筆を執って一時文名を馳せていた田岡嶺雲氏、この二人はもう亡くなった。文学の専門家で、傍らいろはたとえの如き俚諺を集むるを楽みにしていた、藤井|紫影《しえい》氏は、今も京都大学の教授となっている。これらは誰れも知っているから私が説くまでもない。また土居藪鶯氏は、氏の郷里の宇和島の郡長となり、それを罷めて、同地の電気会社の社長となって熱心に努力していたが、惜いかな胃癌にかかって先年亡くなった。二宮兄弟では、兄の素香氏は元来病身であったが、これも帰郷して宇和島の高等女学校長の勤務中に、藪鶯氏よりも先きへ亡った。その弟の孤松氏は夙くより山県公爵に知られて日清戦争には公爵に附いて従軍したこともあるが、その後は自分で新聞や雑誌を経営したり、朝鮮方面の或る事業に手を出したりしていたが、これも近年亡った。この人の主幹となって経営していた雑誌「世界」は、後に「我邦」と改称し、なお藤花学会という愛国主義鼓吹の団体も今は存否如何を知らぬが、孤松氏尽力の形見であった。また椎の友会連中では、伊藤松宇氏と森猿男氏は、地方から帰って来て今も俳壇で先輩となっている事は誰れも見る通りである。その他片山桃雨氏と、石山桂山氏は早くより俳句を止めて、今は消息を絶っている、石井得中氏はこれも亡くなったが、末路は最も窘窮《きんきゅう》していて気の毒であった。以下話が立戻って子規氏の事になるが、病床に臥しながらも、俳句に関する研究や努力はなかなか旺んなもので彼の蕪村句集の輪講もその宅で始める事になって、我々どもも興味をもって毎回意見を闘わした事である。尤もこの輪講はやはり互に句作すると同じような興味主義で遣るのだから、普通の輪講などの如く予め下調べなどをせない。それで句に依るとちょっと判らぬことなどもあるので、或る時私が、
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