手桶が置かれた。この本陣と呼ぶのは戦国の名残であること勿論である。
 私どもの一行もたまたま脇本陣に泊ることもあった。こういう所では取扱が非常に丁寧であった。明日は七里の渡しをして桑名まで行くというので、宮(熱田)に泊まった時であった。宮の宿の用達は伊勢屋といって、脇本陣をしていたので、そこへ泊まることになったのである。切棒一挺、あと垂駕籠という体たらくで、こういう所へ泊るのは極まりが悪いと父がいっていた。その垂駕籠を主人自ら鄭重に奥へ舁入れた事を今も覚えている。
 七里の渡しの折、船も旅籠屋と同様、借切りで、同船の者は許さないことであった、これより先遠州の今切《いまぎれ》でも、一里の間船で渡ったのであったが、この時も一艘借切った。すると船頭が一人の商人の便船を頼むといったので、父は承知した。その商人は艪[#「艪」はママ]の方に小さくなって乗っていた姿が、今も目に浮ぶ。今切はそうでもないが、七里の渡しも風雨の時は止まる。そういう際には長逗留を避けて、佐屋へまわって、即ち入海の岸に沿うて進んで桑名に入るのであった。この事は、かねて藩へ七里の渡しが止まったら、佐屋まわりを致しますということ
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