し幸にして翌日川が開けた。砂川は小さな川であるが忽ち増水する川であった。私は駕籠の中から、その川のあたりの並木に藁や芥のかかっているのを見て、前日の増水の有様を思うた。その次には三河の大平川が止まった。これも幸にして一泊で川が開いた。止まった川が開いたというと、旅客が先きを争うて渡るので広い川原も怖しいほど雑沓した。大井川の止まった時肥後藩の侍がこの位の水で止まるはずは無い、どうしても渡さぬなら泳いで渡ると息巻いたが、制する者があって、思い止まったということを聞いた。こういう憤慨はよく方々で聞かれたのである。
川止の外に面倒なのは関所のあらためである。東海道では箱根と新居《あらい》(遠州)に関所があった。関所は幕府で厳重に守らせたものであるが、既に勤仕している武士となれば、手数はかからぬのであるが、女子供を連れると面倒であった。それは幕府の政略として、諸大名の妻子は必ず江戸に住まわせ、藩地へ帰すことを許さなかったので、もしそれらが身をやつして帰国することが無いかという用心からであったらしい。私ども一行は藩より通行の手形を貰って来たが女は関所で頭髪をかき分けて検査される。手形にはこの女
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