あった。
 どうも日本の武器のみでは駄目である。西洋式の大砲を仕入れなくてはならぬ、また軍隊も西洋式の訓練をしなくてはならぬとの意見が方々に起った。私の藩は先々代が彼の海防に留意された桑名楽翁公の甥であったので、大分開けていた。『うえぼうそう』の如きも楽翁公が奨励されたので、私の藩邸でも早くよりこれを行い、私も四、五歳の時にした。この頃亡くなられた君侯は薩州から養子に来た人で、薩州では有名な斉彬《なりあきら》公が西洋通で、この縁からも、新知識が我が藩に注入されていた。
 それで私の藩邸には、琉球から薩州にも及んで盛んに飼われていた豚を買い入れて沢山飼っていた。これは食用にはしなかった。何でも豚というものは汚物を食うので屋敷内を清潔にしてくれる、それから火事の時には火に向って強い息を吹掛けるから火除けになるという事を聞いていた。子供等はよく『豚狩り』と称してこれを追い回した。残酷にしてはならぬとよく叱られたものである。
 軍隊洋式調練の必要が唱えらるるや、我が藩は直ちに採用して、和蘭《オランダ》式の銃隊を編成することとなり、その教授のために下曾根《しもそね》〔金三郎〕の門人なる小林大助と
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