も行われている蕪村句集の拾遺である。
 今いった碧梧桐虚子の二氏はその後京都の高等中学校の改革で仙台の第二高等中学校に移ったが、間もなく、もう大学校などへ入るのは面倒だという事で、自分で退学してもっぱら東京で文学を研究する事になり、就中俳句は子規氏の下で益々盛に遣る事になって、終に子規氏の左右の腕となるに至った。そこで私は最初こそ子規氏が、無二の相手であったが、もうこの頃は碧、虚二氏が成り立ったので、自然に老人役という側へ廻って、世間からも子規氏と私は芭蕉と素堂の関係だといわるる事になった。けれども子規氏の宅の俳句会は勿論、蕪村の輪講など催す時は私は必ず出席して、一番にお喋《しゃ》べりをしていた。尤も私は中途で俳句の作をやめていた事もあったが、間もなく死灰再び燃えて相替らず作る事になったのみならず、子規氏派の俳句の普及すると共に、私も段々と雑誌や新聞の選者を頼まれる事になった。就中ホトトギスは我々の機関であったために、選者たるのみならず、種々の文章なども出していた。
 このホトトギスだが、これは二十九年頃であったろう、郷里の松山で柳原極堂《やなぎはらきょくどう》氏が久しく俳句を作ってい
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