が、或る時途中で、私より少し年上の女の子が負ぶさって行くのを見て、甚だ見苦しい姿だとつくづく思い、自分の負ぶさった形も、人から見たらあんなに見苦しいのだろうと思って、もう再び人の脊に依るまいと決心したので、それで上野の往復にも、人々が負んぶしようしようといったのを肯ぜず、我慢して歩き通して驚かしたのであった。今日でも私はまず年の割合によく歩き得る方である。
浅草方面へ行くのは、まず梅屋敷の梅見、それから隅田川の花見であった。或る時は屋根舟で花見したことがあった。舟の中から堤を通る知人を見て、私の連れの人が徳利を示して『一杯やろう』といって戯れたことがあったのをおぼえている。一体私は舟を好かない方で、その日も遂には気分が悪いといって寝てしまった。
人の通行に駕籠に乗るという事は、余儀無き急用の際か、あるいは吉原などへ行く時の外に無かった。遊里へ行く者はケチと思われまいとして乗りもしたが、駕籠賃は大変高かったので、普通の場合には大抵乗らなかった。駕籠舁《かごかき》は多く辻にいて客に勧めた。彼らは少し暖かくなると褌《ふんどし》一つの裸で居た。荷車曳きは寒暑とも通じて裸であった。宮寺には、
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