を見たが、就中、仁斎や徂徠春台の経書の解釈に属する書を読んだ。するとこれまで朱子の註釈した経書とは大いに違い、むしろ朱子の註よりも、私の心に適う点も少なくなかったので、その後由井等と共に研究する時には、これらの古学古義派の説をも持出して、彼らを煙に巻いた事もあった。
しかし、明教館の先生の前へ出ては、そんな事は一言も吐かなかった。もし一言でも吐こうものなら、お目玉を喰うのみならず、退学を命ぜられるのである。寛政年間、桑名の楽翁が当局中に漢学は程朱の主義に従うべきものと一般に規定せられてから、私の藩などでは殊にそれを遵奉していた。明教館にもそれらの明文を掲げてあるくらいだから、もしも仁斎、徂徠の異端なる説を称うるならば、一日たりともそのままには置かれなかった。
私は十六歳の時に半元服をした。今日こそ生れた時の産髪《うぶがみ》のままで漸次《だんだん》と年を取って、それを摘み込み、分け方を当時の風にしただけで、ハイカラがっているけれど別にその上の変化はない。しかるに昔は幼者と成年とは非常の変化で、まず生れ落ちた時の産髪は直ちに剃ってしまい、後《うしろ》の方へ『じじっ毛』と言って少しばかり
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