たで船頭が竿をさす。時々岸辺の葦に船が触れてサラサラと淋しい音がした。雨が来ると苫《とま》をふいた。夜船のことだから船中に小田原提灯をともした。その提灯は江戸から携えてきたもので、私どもの旅行には必ずこれを駕籠の先棒へともしたものである。
 一晩船中でおくるのであるから、小便をせねばならぬ。男は船ばたでやるが、女はそれをしかねるので便器を携えて乗ったものであるが、一行の老婆二人も継母も、それには及ばぬといって乗ったが、時を経ると催して来て堪えられなくなった。祖母がまず思い切って船ばたでやった。船頭がそばから『お婆さんあぶない』と声をかけたので、皆が笑った。夜中になって継母もやったようである。私はそのうち眠ったが、目が醒めると、まだうす暗い頃、大阪の八軒家に着いていた。
 大阪には藩の屋敷が中ノ島の淀屋橋の傍にあるので、一行はそこへ行った。既に知らせてあるから、長屋ながら一つの小屋を借りてそこに落着いて、いよいよ藩へ下る船の準備をしてもらった。それまでは少し間があるので、天満の天神など近所の名所を見物に出掛けた。
 この屋敷には留守居という者とその下役が居る。私の藩では、他に産物は無いが、米がかなり沢山出来るので、藩の士民が食べる外に、沢山余る。それを藩外へ売出して、上下共に費用を弁じたものである。年貢の納まるまでは百姓の手で米を売ることは出来ぬので、それが済めば勝手に売出すことが出来るのである。藩は藩の手で船で大阪まで積んで行き、この留守居の手で、大阪相場を聞合わせ、出入の商人に売渡す。これが藩の財政上のおもなる事件になっていた。
 こういう事の外に大阪の留守居には別に肝心な役目があった。それは借金の事である。大名が金を借りる時には必ず大阪の豪商に借りた。その談判は必ず藩の留守居役がやったのである。これはどの藩でも同様であった。各藩の収入では普通の参勤交代等の費用を弁じ得るだけで、その他の臨時費になると、とてもその収入では出来なかった。それに太平が続いて、段々世が贅沢になり、物価が騰貴するに従って、いよいよ豪商に頼る必要頻々と起って来た。借りて、元利を幾分かずつ支払って行く大名には、豪商も直ちに需に応じたが、返し得ない貧乏藩が沢山あるので、そういうのに対しては、たやすくは応じなかった。藩の足もとを見ては、豪商は少しでも利を高く取ろうとした。大阪の留守居はこの談判をうまくせねばならぬ。談判の際大抵豪商とは直接にしないで、番頭を相手に交渉するのであるから、その事なき平素から留守居は時々番頭に贈物をしたり、また酒楼へ連れて行ったりして、機嫌を取るに汲々としていた。因《よっ》て金貸の豪商に対しては、武士の威厳も何も無く、番頭風情に対しても、頭を下げて、腫物にさわるようにしていたのである。かかる次第であるから大阪の豪商は暗に天下の諸大名を眼下に見下だしていた。貸してくれた際には、別に扶持米《ふちまい》を与えあるいはそれを増すこともあった。
 この頃の豪商のおもなる者は、鴻池、住友、平野、鹿島などであった。この中で住友は伊予の別子の銅山を元禄以来開いており、その地は幕府領ではあるが、私の藩が預かっていたから住友と特別の親《したし》みもあった訳だが、それでも金の事となると随分談判に骨が折れた。
 一行はこれよりいよいよ海路を藩地まで行くのである。船は藩の所有で、主としては大阪へ米を積出すに使い、また藩士の往来にも使うものが沢山あった。この外に、昔は海戦に用い、その後は藩主や家老などの重臣の乗用になっている関船《せきぶね》というがあった。この関船は、中に小さな座敷めいたものが出来ていて、その両側に勾欄があり、欄の外側には多くの船頭が立って多くの櫓を操る、その状蜈蚣の如くである。帆も懸けることは懸けるが、船の運びが櫓でするように出来ているから、帆の力は荷船のようにはかどらぬ。藩主が乗る時には、幟、吹流しを立て、船の出入りには太鼓を打った。
 荷船は荷を積むのがおもで、その一の胴の間というに我々一行の如きが乗るのであるから、頭を高くあげるとつかえる。櫓は舳先や艫《とも》に三、四挺あるが、櫓で運ぶという事は、よくよく順潮の時に少しやるだけで、もっぱら帆によって行く事になっている。関船もそうだが、荷船に至っては一層、風の悪い時は航海を休む。そういう際は陸の川止のような工合で、或る港で長く滞留せねばならぬ。船中では、一行の食料は、いずれも自分で弁じて積込んでいる。米はカマスで沢山用意し、干物類のようなものを数々用意し、ちょっとした鍋|俎板《まないた》庖丁膳椀皿なども用意しているので、少しも人の世話にならずに食事をするのであるが、飯だけは、船に附いている竈で、家来に焚《たか》せる。だから川止めで宿銭をドシドシ取られるような苦痛は無いが長くなると食料を買込
前へ 次へ
全100ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング