は殆ど定価のようになっていて、既に江戸出発の折に、幾ら幾らと予算に立てて置くことが出来た。
旅籠屋では茶代を必ず置かねばならなかった。何でも二百文か三百文ぐらい置いたもののように覚えている。
武家には温順であるとさきにいった雲助、馬士も時々酒手をくれぐらいのことはいった。武士であるから叱り付ければそれまでのことであるが、やはり乞われれば少々は与えた。与えないと疲れぬのに疲れた風をして、グズグズするという位の復讐にはあうのだ。
武家宿には、特に何藩の定宿というのも多くあった。松山藩の如きは別に定宿というのは無かったが、幕府の親藩に準じたという訳か、外の外様や譜代よりは、海道筋でも何となく勢力があるらしく、『松山様』といえばどこでも快く宿を引受けた。なお昔は長崎の探題とかであった訳もあろう。
大名の泊る宿は本陣と称したが、それに次いで『脇本陣』というのがあった。家老あたりの身分のよい者は本陣か脇本陣で泊った。大名の泊る時は、前にもいったように駅の全部を占領したもので、駅の両端には『松平隠岐守泊』というように書いた札を立て、本陣の主人は裃はだしで駅の入口に出迎え、本陣の門には盛砂、飾手桶が置かれた。この本陣と呼ぶのは戦国の名残であること勿論である。
私どもの一行もたまたま脇本陣に泊ることもあった。こういう所では取扱が非常に丁寧であった。明日は七里の渡しをして桑名まで行くというので、宮(熱田)に泊まった時であった。宮の宿の用達は伊勢屋といって、脇本陣をしていたので、そこへ泊まることになったのである。切棒一挺、あと垂駕籠という体たらくで、こういう所へ泊るのは極まりが悪いと父がいっていた。その垂駕籠を主人自ら鄭重に奥へ舁入れた事を今も覚えている。
七里の渡しの折、船も旅籠屋と同様、借切りで、同船の者は許さないことであった、これより先遠州の今切《いまぎれ》でも、一里の間船で渡ったのであったが、この時も一艘借切った。すると船頭が一人の商人の便船を頼むといったので、父は承知した。その商人は艪[#「艪」はママ]の方に小さくなって乗っていた姿が、今も目に浮ぶ。今切はそうでもないが、七里の渡しも風雨の時は止まる。そういう際には長逗留を避けて、佐屋へまわって、即ち入海の岸に沿うて進んで桑名に入るのであった。この事は、かねて藩へ七里の渡しが止まったら、佐屋まわりを致しますということを願って、許しを受けて置かねばならなかった。近江の湖水では矢走《やばせ》の渡しがあるが、これを渡ることは禁ぜられていた。それは比叡颪《ひえいおろし》の危険を慮かってのことであった。私どもも勢田《せた》の長橋を渡って大津へ入込んだ。家来二人は矢走を渡りたいといって、姥ヶ餅のそばから矢走へ行ったことを覚えている。これは軽輩だから可《よ》いのだ。
東海道の所々に名物がある。しかし一行は節倹を主としていたので、あまりそういう物を食べなかったが、私だけは時々ねだって食べた。その中で、小吉田で桶鮓を食べたことをよく覚えている。小さな桶に鮓を入れたのを駕籠の中へ入れてもらったが、その桶が珍しかった。有名な宇津の山の十団子は、小さな堅いのが糸に通してあるのだ。これは堅くて食べられなかった。
小夜の中山の夜泣石の由来は、その前の宿で父が大体話してくれた。通りすがりに駕籠から見ると、石は道のまん中に転がっていて、上に南無阿弥陀仏と刻《え》りつけてあった。大名などの通り道だからというのでかたわらへ除けてみるが、石自身で元へ帰って来るとの話であった。この峠から遥に粟ヶ岳というが見えたが、そこにはかの無間《むげん》の鐘がある。それを撞けば、生前にはどんな望でもかなうが、死んでから必ず無間地獄に堕ちるという事を聞いたので、粟ヶ岳を見ただけでも怖しく思った。夜泣石と無間の鐘との由来は刷物になっていた。また『刃の雉』というのも刷物になっていた。これは昔或る武士が剣の如き尾羽をもった怪鳥を射殺した話であった。
矢矧《やはぎ》の橋の長いには驚かされた。それを渡ると、浄瑠璃姫の古跡があって、そこに十王堂があった。私はかつて見た錦画の、姫が琴をひき、牛若が笛を吹いている処を思い出した。
大津に入るあたりで三上山を見た。彼の田原藤太が射た大|蜈蚣《むかで》の住みかだと思うと、黒く茂《しげっ》た山の様を物凄く感じた。
さて一行はいよいよ伏見に着いた。京都へはまわりになるから立寄らない。伏見には藩の用達や定宿があるので、そこに落着き、今まで乗った駕籠を棄て値で売払い、一挺の切棒駕籠だけは残して置いた。それから三十石を一艘借切って、駕籠や荷物と一所に乗込んで淀川を下った、枚方《ひらかた》へ来ると『食らわんか舟』がやって来て、わざと客を罵りながら食い物を売る。私は餅などを買ってもらった。下り船は左右の舟ば
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