家が可笑《おか》しいことは、宿をとる時必ず旅籠《はたご》銭を家来をして値切らせたものである。旅籠銭は一人分が百五十文か二百文あたりであったと覚えている。今の銭でいえば一銭五厘から二銭までの所である。それで本膳の食事を供し、風呂も湧かしたので、今の人の耳には嘘のように聞えるであろう。茶菓子は大したものは出さず煎餅ぐらいであった。今もそうであるが朝は梅干に砂糖をかけて出した。
宿屋全体を占領するのであるからユックリしたもので、上分《かみぶん》は二間ぐらいを領し、家来は遥か隔った部屋に居た。日々の昼食は宿屋にいい付けて弁当を作らせ、用意の器に入れさせ、それを昼頃にどこかの駅か立場に着いた時に、駕籠で食った。弁当など持たないでも、食事する所はどこにでもあったが、旅費も乏しかったので節倹したのである。
侍が単身でもまた一家を連れてでも、旅する際の費用は、決して官から賜らなかった。本来知行を貰っているという事は何らかの場合に公務を弁ずるという請負として貰っているので、それの余力で家族を養うという事になっていたので、藩のために旅行するも公務の一部で、旅費は家禄を以て弁ぜねばならなかったのである。大名の参勤交代でもその通りで皆大名の自弁であった。大名はその上に、時々城やその他の土木工事を命ぜられ、これらも軍役に準じてやはり自弁でせねばならなかった。
藩の侍の如き、表向きは余力で家族を養うということになっていても、実際においては家禄の全部を使ってやっと家族を養っていたので、旅などする時には家禄の前借をしたものである。また別に侍中の共有の貯蓄があって、それも貰うことになっていた。そういう次第であるから手を詰めた旅行をせねばならぬのである。
ところがこの頃は東海道を初め、どの道筋でも『川止め』という厄介な事があった。雨が降続いて川が増水すると、危ないというので渡しを止めるのである。東海道の川々、大抵は舟渡しで、大井川と酒匂川《さかわがわ》だけは特別に台輿または肩クマで渡した。台輿は駕籠に乗ったままで駕籠ぐるみに台にのせて渡すので、肩クマというのはけだし肩車の訛りで一人を肩に乗せて渡すことである。大井川の如きは殊に川止めになりやすかった。川止は実に旅客の迷惑であったが、それに反してその川の両岸の土地の者には大いなる幸福であった。それは旅客が泊って金を落すからである。大名となると泊る際には必ず一駅を一行で占有したものであるから、参勤交代が同時である大名と大名とが相次いで来る時、川止となると、前の方の大名が川端の駅に泊ると、次の大名はその次の駅で泊ることにせねばならぬ。川止のためにこの大名達が土地へ落す金は非常なものであった。
それで少し雨が多いとなると、危険というほどでもないのに、もう舟は出せないといって止めてしまう。これに対してはいかに大名といえども渡る事は出来なかった。またその土地の舟以外の舟で渡るという事は幕府の禁ずる所であった。大井川の如きも人足が渡してくれねばといって、舟を浮べることは勿論禁ぜられていた。なんでも大井川などは早く増水するように特に渡し場の所だけ深く掘ってあるとかいう話も聞いていた。
私どもの一行も川止にあわぬようあわぬようと念じつつ行ったが、大井川は無事に越した。こういう川越しの際の人足もその役筋から雇ってくれるので安かった。私も台輿で渡ったが目がまうように覚えた。或る日途中で父が力を落した風で投げ首で休んでいた。私が怪《あやし》んで聞くと、このさきの砂川(遠州)が止まったといった、それで日はまだ高いのに掛川《かけがわ》に泊った。しかし幸にして翌日川が開けた。砂川は小さな川であるが忽ち増水する川であった。私は駕籠の中から、その川のあたりの並木に藁や芥のかかっているのを見て、前日の増水の有様を思うた。その次には三河の大平川が止まった。これも幸にして一泊で川が開いた。止まった川が開いたというと、旅客が先きを争うて渡るので広い川原も怖しいほど雑沓した。大井川の止まった時肥後藩の侍がこの位の水で止まるはずは無い、どうしても渡さぬなら泳いで渡ると息巻いたが、制する者があって、思い止まったということを聞いた。こういう憤慨はよく方々で聞かれたのである。
川止の外に面倒なのは関所のあらためである。東海道では箱根と新居《あらい》(遠州)に関所があった。関所は幕府で厳重に守らせたものであるが、既に勤仕している武士となれば、手数はかからぬのであるが、女子供を連れると面倒であった。それは幕府の政略として、諸大名の妻子は必ず江戸に住まわせ、藩地へ帰すことを許さなかったので、もしそれらが身をやつして帰国することが無いかという用心からであったらしい。私ども一行は藩より通行の手形を貰って来たが女は関所で頭髪をかき分けて検査される。手形にはこの女
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