馬には本馬《ほんうま》とカラ尻《しり》と二種あった。カラ尻は本馬の半分の量目の荷だけ附け、尻の方はカラになってる、そこへ人が一人乗られるのである。だからカラ尻があれば、家来が足を休めるために時々乗ることが出来て便利である。
 私どもは十二年間馴染んだ江戸を出発して、品川鮫洲の茶屋、今もあるあの川崎屋で休んで、そこで見送りの人と告別した。父の弟の浅井という小姓をしていたのが馬で送って来て、その頃の事であるから、兄弟またいつ遇われるやらと別を惜んだことを覚えている。品川までは江戸の人足のカンバンでも着たのに駕籠を舁かせて来たが、品川で雲助を雇うのである。
 雲助といえば、暖くなれば皆裸で、冬でも、着物一枚着てるのはよほどよい方で、むしろを巻いたり、小さい蒲団を縄で結わえ着けたりしてるのもある。品川で始めてこの者どもの手に渡るのである。雲助は駅々の親分を通じて用を聞いていたものである。彼らは戸籍も無く親戚も無く全くアフレ者で、金を少し取れば、酒を飲むか飯盛を買うか博奕《ばくち》をうつかの外はせず、駕籠の客に対しても何をするかわからぬ物騒な者どもであるが、侍の一行に対しては極めておとなしくした。
 駅より駅への長い間には一行の駕籠が離れ離れになり、一町二町と隔たって舁がれて行く。こうして広い野や淋しい山道を通ることがある。婦女子などはこういう時雲助に対して甚しく不安を感ずべきであるが、武家の一行は全く安心なもので、次の駅で皆無事に揃うのであった。なぜ武家に対して彼らが温順であったかというに、武家は駅の問屋の手を経て雲助を雇う。問屋には雲助の親分が請負的に用を弁じている。もし雲助に悪行があったら、直ちに親分の責任になる。故に親分はその雲助に制裁を加えた。馬子も雲助同様の組織になっていたから荷物も聊か障りなく届いたものである。制裁はなかまどうしで加えさせたもので、軽いので指を一、二本へし折られた。甚しいのは十本とも折られる。あるいは殴って半殺しにする。そうしてその駅を追っ放す。或る駅でこういう制裁を受けると他の駅でも雇ってくれぬ。だから雲助は親分には十分に服従せねばならぬのである。それで問屋から口をかけられた旅人には、全くおとなしくしていた。
 賃銭は武家の払うのは五十年も前の相場で払うので、安政の当時においては不当なほど廉価なものであったが、雲助や馬子はそれに甘んじて仕事をした。それではいかにも引合わぬという疑が起ろうが、彼らの稼ぎには武家以外に平民がある。平民の用は、問屋から武家の用を命ぜられるそのいとまに遣るということになっており、それは『相対雇《あいたいやと》い』といって、問屋を仲に立てないでいるので、賃も十分に取り、なお酒手もねだった。それで武家の方と差引して生活したのである。それでは平民ばかりを客にしたら大変に宜いはずであるが、それは許されていなかったのである。
 平民の旅行となると雲助のために多くの費用がかかった。就中《なかんずく》役者などの芸人と認めると一層高い賃を取ったから、芸人等は大抵商人に扮して旅行した。しかしそれが露われるとまた恐ろしく取ったもので、場合によれば手込にもした。
 武家が大勢落合って雲助や馬子の不足する時は、問屋から別に『助郷《すけごう》』というものを出した。これはその地その地の百姓が役として勤めたもので、馬を持っていれば馬子の代りをせねばならなかった。この助郷は雲助などに比べると相当の着物を着て身形《みなり》もよく一層温順であるが、それだけ駕籠の舁き方も拙く、足ものろいので、我々はやはり助郷よりも雲助の方を便とした。
 私どもは一定の立場《たてば》々々で人足や、馬のつぎかえをしつつ進み、その夜は戸塚の宿に泊った。
 私は旅することを初めは面白く思ったが、山の中野の中を連れと離れて舁がれてゆく時は怖しく淋しく、父などと一所になればやっと安心し、立場で茶受けに名物の団子など食べる時には嬉しく、問屋で人足をかえる際には、諸藩の武家をはじめ往来の旅客が集って極めて雑沓するので、はぐれはしまいかと心配した。
 さて戸塚へ泊ると、宿屋の食事は本膳で汁や平がつくので、常に質素な食事ばかりしていたから、大変な御馳走だと思った。そして夕飯朝飯は毎日どこでもこれであるので嬉しかったが慣れぬうちは知らぬ家で寝るという事が不安で、父や祖母と一間に寝たのであるが、戸塚では殆ど眠られなかった。それも慣れては我が家の如く安眠するようになった。戸塚の駅の辺りで屋根の上に一八《いちはつ》の花が咲《さい》ているのを珍しく眺めた。
 その頃では私の父位の身分の一行であっても、宿を取ることになればその宿は一行で借切ったもので『相宿は許さぬ』と告げ、宿屋もそれを承知したものである。武家の宿と商人の宿とは大抵別になっていた。かくまで威張った武
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