った事よりも政府の大英断に向って心窃に謳歌した。勿論祖先以来戴いた君公と離るる事は人情として忍びない処だけれども、日本の存立上に考え至れば如何ともし難いと諦めた。しかし一般の士民にあってはその点には何らの智識もないから、非常な驚愕を以てこの御沙汰に対した。尤も藩籍奉還後、藩主が藩知事となられた上は、久松家はほんの或る役目を旧藩地に務めていらるるだけで藩地は既に旧来の如き領分ではなく、従って君臣の関係も既になくなっているのだが、領主がそのまま知事となっていられるので、それらの制度や事実が全く判っていなかったのである。そこで今般の廃藩置県は久しく戴いた、殿様を一朝にして失うのだと思う事から、驚いたのも無理はない。しかのみならず知事にして一度藩地を去らるる上は、如何なる人が来て、松山を治めて、如何なる虐政を施すかも知らぬという惧れもあるので、これはどこまでも知事の留任を乞いて、藩であろうが県であろうが、相替わらず、久松家の政治の下にありたいという事を希った。即ちこの廃藩と共に、知事は従来の公家達と同じく華族となって東京へ移住せらるるからである。
この知事留任の希望は終に具体的の騒動となって、その先発は城下から七里離れた山分の久万《くま》山であった。この久万山は浮穴《うけな》郡の一部分であるにかかわらず従来一郡として取扱われていた位広い地域であるが、その全部が互に申合って、竹槍蓆旗で城下へ強訴するという事になった。かような騒ぎが起っては、第一朝廷に対しても済まぬというので、当局はいずれも心配した。就中久万山租税課出張所の権大属藤野漸氏は種々説諭もしたが、なかなか聞き入れぬ。そこでこの上は兵力を以て鎮圧してもらう外はないといって、単身藩庁へ駈け着けた。けれども大参事鈴木重遠氏は剛胆であったから、未だ兵力を借るには及ばん、自分で説諭するといって、少参事長屋忠明氏を具して数人の属官と共に久万山へ赴いた。そうして、租税課出張所において二、三の頭立つ者を呼んで説諭しようとしたが、誰れも出て来ない。かえって総勢はその出張所の門前を吶喊《とっかん》して過ぎ行きいよいよ城下の方へ向う様子となった。そこでやむをえず鈴木氏も長屋氏と偕に藩庁へ引揚げたが、さすがにまだこの両氏の一行に危害を加える者はなかった。しかるに租税課の少属重松約氏は、いらぬ事だに一人洋服を着ていたから、暗夜の事といい群衆中に、それ西洋人が来たと叫ぶ者があるや否や数人が竹槍を持って重松氏を馬から突落して、かなり重傷を負わせた。既に大少参事は引取るし、藩の官吏に重傷を負わせるという事になったから、一揆はその勢で久万山を下り、浮穴郡の他の部分や久米郡伊予郡へも同様に蜂起の煽動をした。そうして出て来ねば家屋を焼くと威かしたのでいずれも久万山の一揆に加勢することになった。もとより知事公留任の希望というは、藩地全般にそうなのであるから、多くは待っていたといわぬばかりに一揆に加わったのである。そうして手始めに久万山以外の浮穴郡を管轄している租税課出張所を焼いた。そこでここにいた権大属石原樸氏も藩庁へ来て、この上は是非といって出兵を求めた。
この一揆の起った事を旧知事の久松家にも聞き込まれ、このまま捨て置かれぬといって、まず旧家老あたりの者やその他藩の元老顔をしている者に説諭を托された。従って私の父櫨陰もこの仲間に加って、彼方此方と奔走して説諭をしたのであった。がなかなかそれらの説諭には承服せない、一揆の与党には温泉《おんせん》郡、和気《わけ》郡、風早《かざはや》郡、野間郡等も加わって、残る処は周布郡桑村郡のみであった。この両郡を管轄している租税課出張所の権大属白井守人氏は殆ど身を挺して熱心な説諭をしたので纔《わずか》に防ぎ止めたのであった。しかのみならず、城下に居る士族や解放された卒なども、改革に遭って門閥家禄を失い、あるいは平民に落されたという怨恨もあるから、何か事あれがしと思う矢先にこの一揆が起ったのだから、いよいよそれが城下に繰り込む時は、共に力を協せて藩庁を攻めて、大少参事を殺戮してしまおうという考えの者も尠くなかった。そこで藩庁はかつてもいった如く、三の丸が焼けたので、二の丸に設けられていたが、一揆の起った頃から、大少参事その他属官等も藩庁に詰め切って頻りに鎮圧の評議を凝した。そうしてこの二の丸の高台から眺望すると、城下近くまで諸郡の一揆は押し寄せていて吶喊の声雷の如く起り、また租税課の出張所はその後久米郡も焼かれたので、それらの焔が天を焦がしている。夜に入ってはいよいよ物凄い光景で、藩庁は全く敵国の中に陥っている姿になった。そこで私もいよいよ死を決したが、百姓の竹槍に突かれて嬲り殺しにされるのもつらいから、どうかして敵前に進み出て彼の銃丸に中りたいと思った。勿論彼も猟銃位は沢山持っ
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