。大阪の見物はそこそこに済まして、いよいよ藩船の便で海路は別段の事もなく松山へ帰着した。それからというものは、誰れに向っても例の文明談の気焔を吐き散らした。といって実際どれだけの事を知っているかというに、まず福沢諭吉翁の西洋事情三冊を読んだ位で、その他は江戸が東京となって以来多少の変化した状態を目撃したというだけである。されど藩地のみに蟄居していた者と比ぶればこれでもなかなかの新智識であったのだ。最近の詞でいえば、我々はハイカラである。ハイカラといっても今頃の青年よりは一層突飛な西洋崇拝で、日本の旧来のものは何事も陳腐因循だとして、一も二も西洋でなければならぬという主張であったのが可笑しい。私も今でこそ今日のハイカラ達を譏《そし》りもし警《いまし》めもするが、以前の私のハイカラは今日の人々よりも数倍のハイカラで、このハイカラ熱からいえば今の若い人々はまだまだ沈着しているのだ。そこで私どもの意見では、松山藩が維新の際に失敗したような事を再び繰り返してはならない、なんでも時勢に適応して、大いに藩力を振わねばならない、それには武備の振興が第一だといって、私は平士上隊でいるから、まず軍隊の調練に熱心に従事した。この頃の藩の軍隊は、蘭式を改めて英式となしていて、士分から卒に至るまで一様に従事させていた。けれどもいずれも熱心がない。それもそのはず、隊長たる者はやはり従来の家柄の老人や半老人で、号令のかけ方さえ、自分にも判らないから、その日のかけ声を扇子へ記して置いて、それを窃に読みながら進退を指揮するという風だから、隊兵の方からも充分馬鹿にしており、従って進退駈引等に号令が懸ってもぐずぐずしていたから、あるいは右向けといって、左向くやら、止れといってもまだ進むというような、不規則至極なものであった。私はそれを見て頗る憤慨したから、同じ隊中に立っても自分だけは本気にやっていた。今も記憶しているが、隣りに居た、背の低い某氏が号令を聞き誤って向きを違えた際、鉄砲を私の頬へ打ち付けたのでなかなか痛かった。そうしてこの頃の服装はやはり袴の股立ちを取って、尻割羽織を着て、頭には塗り笠を頂き、腰には両刀を佩びていた。私はこんな体裁ではいかんと思って、洋服一着を買って、それで出るつもりでいたが、まだ着ないうちに改革があって藩政に参与する事になった。この明治三年は朝廷から再度の藩制の改革があって、これまでの大少参事の外、大属少属、史生、庁掌、を置かれて、なお、藩知事の職権も制限せられ、或る事件以上は一々朝廷の指揮を仰がねばならぬという事になった。そこで、藩政もこれに準じて大改革を行わねばならぬという事になって、それには、私の父などはモウ局に当る気がないので、辞職する事になり、その他門閥家なども、文武両職とも段々と辞職する事になった。そうして引続き大参事でいたのは菅良弼氏鈴木重遠氏の二人、それへ新に抜擢されたのは山本忠彰と菅伝氏が権大参事、小林信近氏と長屋忠明氏が少参事、それから野中久徴氏東条○○氏と私が権少参事になった。以上の参事がまず藩政の内閣のようなものである。それ以下の大少属が、庶務、会計、治農、軍務、刑法、学校というように分科して事務を扱ったのだ。尤も少参事は正権共に一般の藩政に関係しつつ、また右にいった分科を主管する事になっていた。そこで、小林は会計、長屋は治農、野中は刑法、東条は軍務、私は学校を引受ける事になったので、藩の学政は思う存分に改革する機会を得た。予てのハイカラ病はいよいよ発作して従来の学規も教則もまた教官連をも凡てを廃止した。かつてもいった如く、藩学校の明教館は文政の頃我藩の名君定通公が創始せられたもので、学則の第一に『学は程朱に従ふべき事』とあったのだが、私はそれを取り除けて東京の大学の学規の『道の体たるや物として在らざるなく、時として存せざるなし』云々の文を掲げて、学科は普通科、皇典科、洋典科、医療科、算数科というを置いて、その普通科が実は漢学を主として日本の在来の漢籍やその他西洋の翻訳書等を教授させたのである。そうして、以前私どもが教えを受けた、老先生は凡てを免黜《めんちゅつ》して、比較的年の若くて多少西洋の話しも判りそうな者だけを教官に残し、その他は、私の同年輩あるいはそれ以下の聞かじりのハイカラ書生などを用いた。尤も皇典科は藩地で多少それを研究していた神官連を用い、医療科は医者のいくらか学理を心得ているものを用い、算数科も藩地でも名を取っている数学者を用いた。それから洋典科は藩地では人を得られぬので、その頃は慶応義塾が多くの洋学生を養成していたから、そこへ懸合って稲垣銀治氏というを雇った。その後尚銀治氏の紹介で稲葉犀五郎、中村田吉両氏も雇った。尤も稲垣氏でさえ慶応義塾でピネオの文典とか、カッケンポスの万国史とかミッチェルの
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