いうので世子は遽に上京して幕府の差図を仰がるることになった。そこで私もお供をして京都へ行き、最前の寺町の寺院へ上下共に暫く滞留した。そして世子は直に二条城に登城され、新将軍慶喜公に謁見して右の事件を言上せられた。間もなく老中からの達しでは、その藩においてこの際兵端を開くことは宜しくない、また幕府から援軍も差立てられ難い、而してかつて出兵の際の放火一件に関しては、その挨拶として使者を立てるだけは、差支ないという趣旨であった。それは世子においては将軍に対して十分強硬なる決心を述べられ、併せて幕府の援助をも求められたからである。が、その頃の幕議としてはとてもそれに応ずる事が出来ぬ所より、余儀なく右の如き指令にもなったのである。そこで世子は直ちに帰藩せられることになったが、この時初めて外国船を借入れて、兵庫港より乗込まるることになった。それで大阪までは船で淀川を下り、それから兵庫までは陸路を取らるることになったが、その日私は非番に当っていたから、同じ非番の同僚とぶらぶら歩きながら兵庫へ行った。前にもいった従弟の山本新三郎なども同行していたので、途中湊川の楠公の碑を弔った。この碑は、その頃は田圃の中に、幾本かの松の木の下にあって、半丁ばかり隔てた庵室みたような家にそこの鍵を預っているから、それへ行きいくばくかの礼を払って案内してもらった。碑は辻堂位の小さな建物の中に建っていて、裏面に楠公の木像が祠られていた。それから右の案内者から碑文並に正成の筆という石摺などを買った。菅茶山《かんさざん》の詩『客窓一夜聞松籟月暗楠公墓畔村』を想出して、昼と夜とこそ違え同じ感慨を起したことであった。しかるに今日ではここらが神戸の目抜の市街となって、楠木神社も立派な宮居となり、周囲には色々な興行物さえ陣取っている。が、鳴呼忠臣楠子墓という文字に対しては、やはり昔の光景が似合っているように思われる。
 世子が帰藩せられて、幕府の指令を一般に告示されて、いよいよ正式の使者を長州へ差立てらるる事になったが、それには番頭の津田十郎兵衛というが家老代理として命ぜられ、それに目付の藤野立馬久松静馬河東喜一郎が同行した。勿論これは大島討入の際の挨拶というのみであったが、先方からは有名なる木戸準一郎が出て来て、防州宮市において応接した。而して木戸は、長藩の最初からの勤王並に奉勅の始末を縷々弁じ、是非貴藩にも連合せられたいと迫った。けれども我藩の使者は幕府の指令もあるから、この盟約は断然謝絶した。そこで彼は不満足でなお種々問答もあったが、結局不得要領な談判で、我藩の使者は引取った。従てこれだけではまだ長州方面の警戒は解けないのであるが、前にもいう如く、彼には既に薩州と連合して大なる企ても進行していたのであるから、その後は何事もなく経過した。
 しかるに我藩内では、この長州に対する事件からいわゆる正義派また過激派はいよいよ燃え立って、この際因循派の当局者を厳罰せねばならぬということになり、それに世子の側用達の戸塚助左衛門なども内より指嗾《しそう》したから、馬廻、大小姓の平士組の有志者も加って、大勢が藩主に謁見してこの厳罰の事を申立てた。また最も過激なる輩の如きは、当局者の居宅へ詰め掛けて、割腹を迫り、承知せねば切殺そうという申合までをした。そこで私の父は多少学問もしているから大義名分位も心得ているのであるが、藩主始め家老その他の重役が、藩の立場の危難を慮るがために長州へ内使を立てるということになったので、それにも反対をしかね、その方便も多少時勢の変化を待つためにもなろうと考えていた。しかるにこれまで父は藩政の要部たる目付で、かつ世子の側用達を兼ねていたのであるから、この度の内使一件については父を首謀者位に見ている者もあったらしい。従て何時過激派が宅へ来て父にも危害を加えるかも知れぬという虞《おそれ》もあった。そこで私も万一の際は如何したらよかろうかと考えたが、結局父と共に死ぬる他はない。で、もし父に迫るものがあったら、私は飛出して行ってまずその者らに切付けよう、勿論多勢に無勢だから、反対に切殺されるは知れて居れど、父と共に死ぬるのは子たるの道だと思って、余儀なきながらも決心していた。が、幸にそんな事も無くて済んだ。而して、過激派の建議は大体採用さるることになって、当局者はそれぞれ責罰を蒙った。即ち、家老の奥平山城、奉行の近藤弥一右衛門、大島へ内使に立った代官奥平三左衛門は隠居、目付で上席三人の皆川武大夫、野口佐平太と私の父、及び奥平の副使となった矢島大之進は目付支配を命ぜられて、いずれも謹慎せよとの事であった。そしてそれに関係して右の人の子弟もそれぞれ譴責を受けて、私も小姓を免ぜられて目付願取次となった。常に私を愛している祖母などは、この責罰を驚き悲しんで、『お父さんはともか
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