いって注文される事は出来ない。もしも食べたい物があるなら、それは予《あらかじ》め奥の方へ小姓を以て通じて、そこで調理せしめられるのである。けれどもそれも一品位に止まっていた。膳部が下った時、いかに食べ残しの物が沢山あったといっても、小姓などはそれを頂戴することは出来ないのであるが、この奥から出したものは、御次ぎへ持ち下って、残ったものは食べられる。これはいつも最先輩の一人二人の口に入るばかりであった。
今奥といったが、世子が奥へ行かれるのは一ヶ月六回に限られていた。その他は病気があっても、表の居間で臥されるので、奥へ行く事は出来ない。そうしてこの六回も昼間ではなく、六ツ時後の夜に限られていた。またこの奥といっても世子の奥方は江戸の藩邸に居られるから、御妾のみが居るので、これは世子の東西に往来せられる際、別に奥向きの役人が引連れて他の女中と共に往来したものである。ついでにいうが、大名のお妾という者はなかなか勤めにくかった者で、それは君公に対するよりも朋輩の女中と折合いが悪く、いつも女中から、いじめられた者だ。なるほど大勢の空房を守る女の中に、君公の御恩を蒙る者が一人居るのであるから、女性の妬み心はそれに集って、何とか彼とか難癖をつけて、その結果は御暇という事にもさせるのであるが、この世子に仕えていたお妾は、私の知っては長い年でもなかったから、右の御暇のあったような話もきかなかった。尤も私どもは、このお妾を始め凡ての女中の顔を見た事もない。或る式日は奥の老女と中老のみが表の御居間へ、御礼を申上げに出て来る、その顔は見る事がある。昔の風としていかに年を取っていても白粉や臙脂をつけ、なお式日に依ては額に黛を描いている事もあった。帯も何だか左右へ翅を広げたように結んでいた。その外我々が奥の女中と出逢う事は、世子の何かの御用とか、あるいは今いった六回だけ奥へ行かれる時とかに、奥と表の間の廊下の御鈴口という所で出逢うのである。この御鈴口は常には閉めて、表裏に錠が下りて、どちらからか用があれば鈴を鳴らす。すると出掛けて行くが、小姓でも最先輩でなくてはここへ行く事は出来ない。そして用事を話し合うといっても、お鈴口の敷居を互に越す事は出来ない。敷居を隔てて手を突いて話し合う。世子を奥へ送る時でもこの御鈴口限りで、小姓は例の持っている小刀を女中に渡す。それと共に世子は奥へ行かれる。お鈴口はチャリンと錠が下りる。これもなんだか囚人の受取渡しでもするような有様であったのだ。
他の藩でもそうであろうが、私の藩で家老と他の藩士とは、非常の等差のあったもので、家老はその他の藩士を何役であろうが呼び捨てにする。藩士は某様といって殆んど君公に次いだ敬礼をする、途中で出逢っても、下駄を穿いている時はそれを脱いで地上に跣足《はだし》で立たねばならぬのだが、それを略して、下駄のまま鼻緒の上へ足を乗せて、型ばかり脱いだ式をした。その位の関係であったにかかわらず、世子から家老の某を呼べとの仰があれば、我々小姓の一人は直に御次ぎの外なる御家老部屋へ行って、そこに厳めしく並んでいる家老に対って、此方は片膝を折って片膝を立てたまま、一礼もせず、『某召します、』と大きく呼ぶ。家老は直に平身低頭して、畏りましたと御受けをする。この時自分は君公の命を伝うるのであるから、なかなか威張ったもので、平常家老に対して頭を下げた不平を聊か漏らす事が出来た。これは小姓の一つの役得といってもよいのだ。一体封権の世では君臣の間という事は厳重であったから、君前においては互に名を呼び捨てにする。家老であろうがまた親であろうが皆呼び捨てだ。詞遣い等も『どうしませい、こうしませい』といって決して敬語を用いない。『兜軍記』の榛沢が、『サア阿古屋立ちませい』という詞がちょうど同じだ。今の活歴芝居で、君前にありながら、『某殿』などとよく呼んでいるのは、封権時代の事実の不調べなのである。
前にもいったが、世子は文武の修業をしられていたので、武芸では私と同じ橋本新刀流の門であったから、私も御相手という命を蒙ったが、例の下手である故一度も世子との仕合はせなかった。これに反し、漢学講義とか輪講とかいう際は私も加わって相応に口をきいた。また詩会なども時々あって、それは東野の別荘で催おさるる事もあって、ちょっとした酒肴を頂く事もあった。平常でもお次ぎでは、側役を始め我々小姓も、読書することを許されていた。漢文、仮名物、その力に応じて読んだもので、少々は声を出して読むことも許された。以上は多く私の直接に仕えた世子についての様子だが、藩主といえども大概同様であって、ただ横に寝る時側役の許可を得るに及ばぬのと、奥入りを日々することの自由が異っていただけである。
そこで私も帰藩後は右の如き小姓の勤めをして、漸々とその儀式に馴
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