時は殆んど睨み合いの姿である。勿論我々の小姓は袴をはいている。世子は袴を穿かれない。それから庭へでも下りて散歩でもしたいと思われると、居間の小姓二人が必ず附添う。一人は世子の小刀を持つ。どちらへ歩まりょうが、影の形に添う如くこの二人は離れない。悪く言えば監視附きの囚人というさまだ。それから厠へ行かれる時は今もいった宿番の時の通りである。この厠についてもちょっと言うが、世子の大便所は引出しの如きものになっていて、籾殻が底に敷いてある。そうして一回一回大便を捨ててしまうので、御下男といって最下等の卒の掌《つかさど》る所である。これは男子たる方々の厠の式で、婦人方となると私の聞いている所では、大便所は万年壺といって深く掘って、殆んど井戸のような者であるそうだ。これは始終大便を捨てるということはない。勿論貴き人は一人一個の厠を占有せられているから、生れてから死ぬるか、もしくは他へ縁付せられるまでは、この一つの厠へ用達しをして、その人が居なくなると共に、その万年壺を土で埋めてしまうのである。かように数年もしくは数十年間の大便は深い壺に溜っているのだから、傍へ近《ちかづ》いても臭気紛々たるものであったそうだ。
また世子の方へ立戻るが、世子は日に一回は必ず御霊前拝というがあって、この時は、袴を着け小刀を帯び、小姓は長刀を持って附いて行く。また少々不快で横に寝たいと思わるる時は、側役を呼ばせてその事を告げられる。側役が宜しう御坐りますというと、それから小姓が褥《しとね》を敷くのである。褥の下には別に御畳といって、高麗|縁《べ》りの少し広い一畳を敷く。これは御居間方と云う坊主があって、持ち出して敷く。そうして小姓が凡ての夜具をその上へ敷くのである。小姓も侍だから御畳には手をかけない。やはり士分以下の坊主に扱わせるのである。この坊主はその頃の風で袴は穿かず、羽織ばかりを着ている。この坊主は時々居間その他の生花をする事も役である。また世子が入湯をされる時は、湯加減その他風呂場の準備をする。それから世子の背を流したり、衣服を脱がせ浴衣を着せたりすることは小姓の役だ。もし世子が、今少し熱くせよとか、ぬるくせよといわるる時は、まずそれを小姓に告げ、小姓から坊主に告げ、坊主から風呂場の外に居る風呂焚きの仲間に告げる。世子は決して坊主に直接に口をきく事は出来ぬ。けれども実際小姓に告げらるる詞をモウ坊主はきいているから、それぞれ命令通りにするのである。世子がちょっとでも物を書かれた紙の反古は小姓が持ち下って、御火中という或る籠へ入れる。また洟《はな》をかむとか唾を吐くとかせられた紙は、これも持ち下って、御土中という籠へ入れる。これは名の如く後にあるいは焼いたり、あるいは埋めたりするのである。それから三度の食事は大概時刻も極っているからまず小姓一人が御次ぎ外の遥か隔った御膳番という役の詰所へ行って、『御手当』という。『畏りました』と御膳番が答えて、それをまた下々の役へ伝えて準備をする。少時経って世子が、もう食事を出せといわるると、また一人が走せて行って、御膳番に『御付方』と告げる。そこでいよいよ出来上った膳部を、御膳番が他の役手を引連れて御次ぎの入口まで運ぶ。すると側役がそこへ出て御膳番と対坐して御毒見をする。これは各々の膳に雛の椀や皿見たような小さな器に、その時世子の食べられる飯その他あらゆる物が少しずつ盛ってあるのを、二人で食べるのである。それが済むと、『御出方』と御膳番が叫ぶから、小姓がその膳部を受取って、世子の前へ据える。この据え方にも極った儀式がある。膳が据わると跡から飯を入れた飯櫃が出る。これも側役と御膳番とが立会で、各々口を袖で覆うて杓子を以て、掻き交ぜて検査した上で出すのである。この飯を盛る役は当番の小姓中で最先輩に限られている。また茶は坊主の今いった、御居間方の次へ付く者が兼て用意をしていて差し出す。これには何故か御毒見はない。尤もこの坊主は、御居間へは出られないから小姓が取次ぐのである。世子の膳具は黒の漆塗りに金で蒔絵がしてあって、中は朱であった。膳も同じ蒔絵である。そこで飯櫃を司っている小姓は最初の一椀を盛る時杓子で飯櫃の飯の上へ久の字を一字書く真似をする。そうして盛って出すが、盆は用いないで、椀の底の方を手で持って出す。世子は小食であったから、大抵二椀位で稀には三椀食われた。副菜は一汁二菜と外に漬物一皿と限られていたが、一椀の飯を尽されると共に一人の小姓は直に下って代りの汁椀を持って出てそれと引替える。汁の外は、平が一つと皿に焼肴とか煮肴あるいは刺身位が盛ってあるのだが、その平の蓋は必ず、小姓が取ったものである。この副菜は御膳番の方で大体好かるる物や好かれぬ物を知っているから、一度ごとに選んだものであるが、さりとて世子が何を食べたいとか
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