ら井上という家へ養子に行った者が借りて江戸まで持って行って、そして前にいった愛宕下の上屋敷の火災の時に焼いてしまったが、その一半はまだここに残っていたので、それを読む事が出来た。浄瑠璃は既に西京で味を覚えていたし、この丸本は一段物と違い、筋も充分分る所から、いよいよ興味をもって読初めた。これも今日私が浄瑠璃なり、芝居なりに親しむ原因となっている。祖母の父の自作の丸本をも私は見たいと思ったが、それも右の井上が借りて行って焼いてしまった。宇佐美家に存していたものは、祖母の甥に当る者が他家の写し本から写し取った一冊だけであったが、私はそれを見たのである。外題《げだい》を『出世奴《しゅっせのやっこ》孫子軍配《そんしのぐんばい》』といって秀吉を主人公として作ったものであった。これは今もナカナカよく出来ていたように思う。大阪ではそれを芝居にした事もあると聞いた。
 かように、私がややともすると道楽的読書に傾き、このままで行ったら当時の武士仲間で歯《よわ》いせられぬ者となるのであったが、ここに一つ真面目に漢学を勉強する機会を得る事が出来た。
 それは漢学の明教館において素読の助けの外、漢籍の意義を講明することも、追々上達して味も生ずるようになったからだ。当時諸外国との関係上、いよいよ横浜を開港場として外国人が住むことになり、幕府では仮条約を結ぶというので、攘夷党は益々奮激して横浜を襲撃せんと企つる者も出来た。私の藩はかつてより横浜の入口神奈川の警衛に任じていて、一の砲台をも築くようになっていたから、それらに対する藩の用務も頻繁になり、私の父は要路に当っていたので度々江戸へ勤番して、神奈川表の警衛にも当っていた。それ故、藩地の宅では、多く父が留守なので、父は私が文武の修行を怠る事を恐れて、親類の水野というに私の漢学の世話を頼んで行った。水野は早くから明教館に出ていて、当時七等を貰っていたのであるが、漢学は余り出来ていなかった。この水野の世話になるという事は、少年ながらも満足には思わなかったが、父の命令でもあり、また水野も誘導するので、時々その家へ行って小学の講義を聴いた。けれども往々不満な解釈を与えるので、私は内心おかしくも思った。
 しかるに或る年、前にもいった君公の御試業があるので、われわれ年輩の漢学生は奮って出講する事となった。尤もその時は君公が江戸に居られたので、家老が代理となって行うのであったが、とにかく漢学生に取っては晴れの場所であった。水野が私に向って、お前ほどに漢学が出来れば是非とも御試業に出たが好いと言ったが、私は一体内気な方なので、馴れた人に対しては随分知っているだけの学問の話もするが、君公代理の前に出て、経書の講釈をするとなると、何だか怖いような気がして容易に出る気にはなれなかった。尤も当時私は既に十六歳に達していた。水野は飽くまでも勧めて止まず、その講釈の仕方までも悉皆口授してくれて、是非とも出ろという事であった。父が藩地にいたら、叱りつけても出すのであろうが、居ないのを幸にして、私はまだ躊躇していたけれども、いよいよその日となる頃には、遂に私も決心がついて出ようと思うようになった。
 そこでその日は明教館の広い講堂で、代理の家老を初め役々が列座している、一面には学校の先生達、一面には明教館の寄宿生及びその他の学生が居並んでいる、その中央へ出て行って一人ずつ講義するのである。この講義をするものは一方に控えていて順々に立って行くのであるが、段々と順番が進んで、私の座席近くまで出て行って、早や私の番が来そうになったので、胸は悸々《どきどき》するし必死の場合となった。その中に名を呼ばれたので、モウ破れかぶれと中央へ進み出て、見台に対し、いよいよ講義を初めた。それは論語の仲弓為季氏宰、問政、子曰、先有司、赦小過、挙賢才、云々の章であったが、私は自宅で度々練習して行ったから、そのままサラサラとやってしまった。存外渋滞もせずに終って、座へ退いて他の処へ行くと、私の講義を聴いていた水野が、『立派に出来た、好かった。』と喜び顔をした。それから耳を聳《そばだ》てると彼方でも此方でも『助さんの講義はよく出来た、驚いた。』というような囁きが聞える。それほどの成績とは自ら知らなかったが、それでは自分もなかなか講義が出来るのだと思って、さて外の者の講義を聴くと、時々いい損なったり行詰ったりして見苦しい態を演ずるのもある。ここに至って自分の漢学が、素読のみに止まらず、進んで講義をする事においても人に負を取らないのであると思うと、それでは一番奮発して勉強しようという気が起り、今まで明教館へ行っても昼間の独看席へは出なかったものがそれからは日々出席し、漢籍も多方面に亘って読むことになった。
 明教館では表講釈と称えて君公初め一般の藩士が聴聞に行く事は
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