わった。これは父の実家たる菱田というが住んでいたが、この際外へ移ったので、その跡をそのまま賜わったのである。これもかなり旧い邸ではあったが、傘屋町のものに比すれば、聊か好いので、家族等も少々安んじた。この邸は南堀に沿うた土手の下で、土手の上には並松が植っているし、裏面には櫨《はぜ》の木が植っていた。紅葉する頃になると坐っていてそれを眺める事が出来た。私が漢詩の方で今も南塘と号しているのは、この南の土手の陰に住んでいたからである。
 かく藩地に住む事になったので、私も久しく京都に住んで廃していた文武の修行を再び継続せねばならぬ事となった。殊に読書は私も得意としていたのであるが、一時京都の空気に触れて、芝居や義太夫、乃至落語等に浮かれていた故、藩地へ帰り多くの朋友と出会って見ると、聊か後《おく》れている気がする。そこで再びそれに負けまいという気が起り、いよいよ漢籍の素読を勉強する事になったので、その年から翌年へかけて素読を全く了って五等を貰った。それからは助読といって先生を助け、未だ五等にならぬ輩に素読を授けてやるのである。何だか一つの位を得たような気がして、私も嬉しかった。而してかように先生の助けをする者は、同年輩の者にも数多あったが、多くは読方を忘れて先生から叱られたり、訂正されたりした。私にはそういった失態はなかった。素読を受ける生徒の方でも、なるたけよく読める助読の人を選んで出る風であったから、私はその選ばれる主な目的となっていた。これも少しく心の誇りとしていた。
 前にもいった武知先生の塾へも相変らず手習に行ったが、傍ら蒙求とか日本外史とかいうものを自ら読んでは、分らぬ所を先生に質《ただ》す事もした。読書力にかけてはこの塾でも私が威張っていた。こんな事で暫く漢学の方を修行したが、武芸の方となると相変らず拙《まず》い。それでも厭々ながら橋本の稽古場へ毎日通って、稽古を励んでいたから、藩地の武場では段式といったその階級も追々進み、最初『順逆』から『霊剣格』『剣霊』という辺りへも行った。これらの段式に応じて許さるる型がある。その型だけは、先生の注目を受けて、まず優等という方であった。けれども実地の撃剣が拙かったから、武芸の側では朋友に対しても自然侮られるので、いよいよそれを厭うようになった。
 私の今の母というは、前にもいった通り継母で、実母は私が三歳の時に没した。実母の里を交野といって、そこには私からいうと祖母と叔父とその妻子がいた。叔父は砲術に長けていたが、武人であったから日々の勤というはなくて、至って閑であった。叔父はこの頃武人のよくする猪打や魚取りをする他に貸本を借りて読んでいた。貸本屋は松山の城下にも二軒あって、蔵書はかなり豊富であった。私も叔父の許へ行けばそれを読む事が出来たので、元来読書好きの私は、この貸本を手当り次第読む事になった。けれども当時多くの人が見た写し本の諸藩のお家騒動とか仇討とかいうものは、余りに文章が拙いので、少年ながらも読む気がしない。もっぱら読んだ物は馬琴の著作であった。八犬伝などはこれまで草双紙の方で見ていたが、今度いよいよ読本《よみほん》の方で見る事が出来たので直に最終まで読み通した。その他『弓張月』『朝夷《あさいな》巡島記《しまめぐりのき》』『侠客伝』『美少年録』等を初め、五、六冊読切の馬琴物は大概読んでしまった。
 これらを読むと共に、他の作者の読本は面白くないので、京伝や種彦の物を少しばかり読んで他は打捨って置いた。作者は忘れたが『神稲俊傑水滸伝』だけは聊か物足らず思いながらも読み了《おわ》った。それから洒落本とか人情本とかいう物も見たが、これらには未だ充分の趣味を有たず、また叔父も『そんなものを見るじゃない。』といって少しく戒められる風があった。その後いくらか年を取ってからは、随分そういう物も読んで、春水は勿論、その弟子の金水あたりの物が好いと思った。そこで田舎に居ながら、江戸の粋人の生活も聊か知る事が出来た。今日鳴雪が時々昔の江戸の粋人の事などをいうも、つまりその頃読んだ書物の耳学問で、多くは聞いた風に過ぎないのである。今一つ交野で読んだものに一九の『膝栗毛』等がある。これもなかなか面白い物と思った。
 かように貸本の味が分ると共に肝心の漢学の修行を怠る風が見えたので、遂には父が怒って貸本ばかり見るのならば、交野へはやらぬといわれ、父の眼を偸《ぬす》んで行くという位になった。
 それからこれは祖母の里で、宇佐美というがあった。この宇佐美の祖母の父なる人は当時もう死んでいたが、この人は漢学者で、漢詩を多く作り、また浄瑠璃(義太夫)が好きで、自分で浄瑠璃の丸本を書いたのも二、三種あった。それほど浄瑠璃には詳しかったから、凡ての浄瑠璃本は殆ど皆宇佐美の家にあった。尤もその一半はその家か
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