で家来がまず食べ始めてうまいうまいといい、やがて家族も食べて、毎晩上下こもごもこれを呼んで食べた。この位の事は、祇園通いをする父がもう戒め得なかった。
そのうち新年になった。春駒というものが来る。これは馬の頭に鈴をつけ、それに手綱をつけて打振り打振り三味線で囃し、それが済むと、ちょっとした芝居一くさりをする、私の所ではこの春駒によく銭をやるので、度々来て芸をした。この春駒の中で、金三郎といって、美男であり芸も多少勝れている者があった。下女などは『金さん金さん』といって、後を追うてよそで芸をするのまで見た。
後にこの金三郎が、尾上多見蔵に認められて、本当の役者になり、やがて名代になって市川市十郎と名乗った。その後東京の春木座が出来した時に、市川右団次の一座に這入って来た。私もなつかしくて見に行ったが、生憎《あいにく》その日市十郎は病気で欠勤した。それから更に烏兎《うと》匆々と過ぎて大正三年になって、市川眼玉という老優が東京へ来た。それが昔の市十郎だと聞いたので、行って見た。彼は石川五右衛門をやった。私はこうして、昔の『金さん』と相対した。五右衛門の友市と久吉の猿松の出あいどころではない、即ち五十年目の奇遇であったが、もとより先方は何も知らず、ただ私一人で胸に京都の昔を思い浮べただけである。
新年にはまたチョロという者が来た。張子の大きな顔の、腰の下まであるのをスポリとかぶり、左右の穴から手を出してササラを持っている。町の子供はこれを見ると『チョロよチョロよ』と囃し立てる。するとチョロはその子供らを殊更に追いまわした。
酒井雅楽頭は、新年になって上京した、私はその行列を三条通りで見た、赤坂奴が大鳥毛の槍を振り立て拍子を取って手渡ししつつ練って行った。江戸に居た時大名の行列は度々見たけれども、こんな晴れの行列は始めてであった。
姫路の藩邸の留守居の下役と、私の藩の留守居の下役とは、親類であったので、かの貸した屋敷へも行って見せてもらったが、大提灯や幕や金屏風で飾立てて、そこへ堂上方はじめ頻繁に訪問したそうで、これが自分どもの住んでいた所かと怪しまれた。雅楽頭の引払われてから、その居間を見せてもらったが、そこに紫色をした蕗の薹が一輪ざしに活けてあったことを覚えている。
間もなく建増も取払われ、私の藩へ引渡されて、また私どもの住居になった。ところがその荷物を運んで
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