江戸で初幟をした折の、長い幟と四角なのとを立てた。七歳以上になると立てぬもの故、次々と弟に譲ったので、弟の初幟といっては、別に買わなかった。この正月継母が更に男子を生んだ。それは彦之助と名づけた。
段々と暑くなった。私も学問所や武場の友達が殖えたので、それらの人とよく遊んだ。その頃子供の遊びとしては城下の外の小さな川へ鮒や鯉を釣りに行くことで、少し荒っぽい方では泥鰌《どじょう》をすくう。私はあまり殺生を好まなかったが、年上の者等に連れられて行くこともあった。
あるいは蕨《わらび》取り、あるいは茸狩《きのこがり》に、城下近い山へ行くこともあった。山の上で弁当を食うことは宜かったが、茨にかき裂かれなどして茸など取ることは、私には唯面倒な事としか思えなかった。そんなことをするより、内でまだ読まない本をそれからそれへと読んで行く方が面白かった。
そうしているうちに、或る日私が外から帰って来ると、継母や祖母が憂に沈んでいる。不思議なことと思ったが、父が京都の御留守居をいい付かった故と知れた。
去年不首尾で帰ってから一年たったので、元来父は藩では才力のあった方ゆえ、長く休ませて置くでもないということになり、それにしても、父は頑固な方ゆえ、京都あたりの留守居でもさせたら、少しは角が取れるだろうとの考えから、こういう役をいい付かった様子である。
京都の留守居といえば、禄高も増し、よい地位であり、首尾直りの上からは目出度《めでた》いのであるが、家族等はとかく国を離れることを厭がり、江戸に居てさえ帰りたい帰りたいといっていたほどであるから、今度の京上りも、家族等のためには憂であったのである。私も何だかやや馴染んだこの藩地を離れるのが厭なようであり、親友と別れることも残惜しかった。
親類等が遣って来ては、我々家族を慰め、長いことではあるまい、そのうちまた藩地へ帰ることになろう、と慰めた。父は別に嬉しいとも悲しいともいわぬ性分であったから、唯黙って京都行きの準備をした。唯、私の文武の修行を怠らせるのを残念がって、長くなるようなら父の実家へ私を預けて修行させることにしよう、といっていた。
八月いよいよ三津から藩の船に乗って、京都をさして上ることになった。三津までは親類も送って来た。別を惜んで落涙する者もあった。この海路は非常に風が悪かった。追手続きなれば三昼夜で大阪に這入れるが
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