って、享保年間に私の藩で御家騒動のあった時、忠義のために割腹した者を、三代前の文武を奨励した君侯の時、特に神として祭られた、その社がある。花見はこの社の参詣をかねていたものである。
社のついでにいうが、私の家の持主の味酒神社は大山祇の神を祭ったもので、久しい以前から唯一神道でいて、社は皆|檜皮葺《ひわだぶき》、神官も大宮司と称して位も持っており、その下にも神官が数々居て、いずれも一家を構えて住んでいた。私はよくこの大宮司の内へも遊びに行った。そこの子供に私と同年輩位のがあって、武知先生へも一緒に行く仲間であった。読書は私より遥に劣っていた。神官の家であるから、彼らは特に弓の稽古をしていて、社の構内に朶《あーち》が設けてあった。私もここで射てみたが、弓もやはり拙かった。しかし撃剣よりは興味があるので、父にせがんで弓矢を買ってくれといったが、父は、弓など射るより確《しっか》り撃剣をせよと叱った。私は読書の方では叱られなかったが、武芸の方では、よく不勉強だといって叱られた。
ある日大宮司の内で遊んでいた時、私のそばにそこの長男が居た。私がちょっと右へ顔をふり向けると、耳の穴が非常に痛かった。長男が私の耳へ小さな藁しべをあてがっていたのである。それから暫く耳が痛んで仕方がなかったが、七十四歳の今日でも、耳の掃除をする折、ある部分に触れると多少の痛みを感ずるのである。
その頃彼らは私に向って、『今こそお前はおとなしくしているが、今に屋敷を持って、他の士族仲間の子弟と遊び出したら、私達は顧みもしなくなるだろう』といっていた。大宮司は従五位上肥後守といっていたが、藩の士に対しては卑下していた。私はたまたま家主の子であり藩地へ来て始《はじめ》ての友達であったので唯一の友としていた。しかしなるほど他の藩士の子弟と交るようになってからは、疎遠になってしまった。
この大宮司へは国学者などがよく来たもので、ある時長く逗留して何か調べ物をしている人があった。大宮司の子等があれは国学の先生で三輪田綱一郎《みわだつないちろう》という人だと私に話したが、それが後年京都で足利の木像の首を切って晒し物にした浪士の筆頭となったのである。そしてその妻は今の三輪田女学校長の真佐子である。この綱一郎は松山城下を少し離れた久米《くめ》村の日尾《ひお》八幡《はちまん》の神官の子であった。
五月になると、
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