持って来た切棒に乗り、仲間等はカンバンを着て槍を立て草履を持ち、具足櫃もカンバンを著《き》た者が担ぎ、合羽籠といって、雨具を入れたものも城下から取寄せてあとに続かせ、行列揃えて城下に向った、父の如きはさほどの身分でもなくかつ不首尾で帰藩したものであるが、これだけの行列はせねばならなかった。
 途中前にいった衣山を通る時三つのさらし首を見た。青竹を三本組み合わしてその上へさん俵を敷いてそれに首が一つずつ載せてあった。私はさらし首を見たのはこれが初であった。
 藩地の住宅は、普通で帰った者は予め屋敷を賜わったものだが、不首尾で帰った者は、直ちには賜わらぬので、暫く借宅をせねばならぬ。私どもは城下はずれの味酒《みさけ》村の味酒神社の神主の持家を借りた。周囲は田畠で、少しの庭もあったが、全くの田舎住居で、私は道中で始めて見た田舎の景に、ここで毎日親しむことになったのである。
 着いた日には親類や知人が沢山集り、こちらでもうけた物もあり、客の持参した物もあって一同が宴会を開いた。会う人は大概私の初対面の人であった。中には子供も居たが、打解けて遊ぶことは出来なかった。
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   四

 さて暫く経って、やや落つくと、私も十一歳になっているから、文武修行の場所へ入らねばならなかった。
 私の藩は、三代前の藩主が明教館というを設け、これに文武の教授場を総て包括していた。就中学問所(漢学の)が根本になっていて、これには『表講釈』という講釈日があり、月に二回ずつは、士分徒士に至るまで、必ず聴聞に出頭せねばならぬ事になっていた。病気等でも届を出さないで欠席する者は、直ちに罰を受けた。おもなる士分の講釈日には君侯も来て聴かれた。
 武芸の方は、弓術が四家、剣術が三家、槍術が三家、馬術が一家、柔術が一家で、これだけ明教館に附属した所に設けられて、各指南した。この師家には人々の望によって、自由にどこへでも入門することが出来た。馬術は木馬の型ばかりを教え、実際のは他の広い場所で教えた。
 私はまず学問所へ入門することになった。その時は上下を着て、誰かに伴われて行った。行き着くと、学問所の教官に導かれ、講堂という広い堂へ行って、大きな孔子様の画像を拝し扇子を一対献ずる。これが入門の式であった。
 その翌日から素読を教えてもらいに出た。学問所の課程は最初は素読で、まず論語を終ると一等と
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